第8話

 その週末、金曜日の夕方に、一颯は恭平と共に高校に足を運んでいた。春休みを待ってスキーの合宿に行く現役世代に臨時でコーチをすることになっていて、その打ち合わせで顧問から「ちょっと来いよ」と呼び出されたのだ。たまに、帰っていく制服姿の高校生とすれ違う。この時期、三年はもう卒業していて、一、二年はテスト期間らしく、校舎に人の気配はあまりなかった。職員室を目指す途中、体育館からは賑やかな声とシューズの擦れる音がして、「おー、バレーの季節だ」と恭平が顔を向ける。一颯は「高校だなー」と応えた。カウントの掛け声が続いていたと思ったら笑い声が爆ぜた。何か珍プレーでもあったのかもしれない。この一週間ほどで一気に寒さが和らいできたせいか、朗らかな空気にくすぐったいような思いになる。

「失礼します」

 職員室の扉を開くと、「おー、来た来た」と顧問の今村が手を挙げた。恰幅の良い中年で、割と大味で放任な男だ。他にも何人かいた先生が来客に一瞬視線を向けるが、直接知らない先生が多く、こんにちはー、と軽く挨拶が飛ぶと、みんな各々の業務に戻っていく。

「まあ座れや」

 ういす、と適当な返事をしつつ、狭い通路のデスク脇に今村が引き寄せた椅子に腰掛ける。

「元気か? まあ元気だな」

「答える前に決めないでくださいよ」

 恭平がつっこむと、今村は「おー、おー」と聞いているのかいないのかわからない返事をしながらごそごそと机の上に積み重なった紙を漁る。予想した場所に求めるものがなかったのか、一枚一枚見たりめくったりしながら話しかけてきた。

「で、どうだ。大学ちゃんと行ってるか?」

「行ってますよ。進級も決まってるし」

「おー、それはよかったな。お前らと同じ代の松本もコーチに呼ぼうかと思ったんだが、留年したって聞いて来んなってなったんだよ」

 思わぬ角度で旧友の留年情報が降ってくる。思わず笑いを漏らしながら、

「先生それむしろ、連れてってやった方が良かったんじゃないすか、気分転換に」

 と言うと、クリアファイルを手にそこに大量に突っ込まれたプリントを精査していた今村がこっちを向いた。

「んなわけねえだろ。勉強だ」

「いや大学の単位って春休みに勉強してどうにかなるとかじゃない気が」

「たるんでるやつは連れて行かねえってこと。でも、そうすると今でもスキー続けてるやつってお前らくらいになるんだよな。人手が足りねえんだよ。こっちは何故か気づいたら人気になってて今部員四十二人だぞ」

「うわ、それ俺らだけで見るんすか」

 そこで今村が「あ、そうだこっちだ」と大きな独り言を言い、さっきまで探していた場所ではない引き出しを力強く開けると中からプリントを二枚取り出した。一颯と恭平に一枚ずつ渡してくる。

「やっと見つかったわ。それ、スケジュールとか詳細とか諸々な。現役に配ってるやつ。遅刻すんなよ」

「あざっす。って、これだけ? これ渡すだけなら写真とかスキャンでいいじゃないすか」

 散々待った上に出てきたものに恭平が呆れていると、数秒の間のあと、今村がしれっと言った。

「うるせえなー。一応顔見とこうって思うだろ」

「……思いつかなかっただけじゃないんすか」

「アナログはいいぞ。学校っぽいだろ」

「言い訳がすごい」

 やいのやいの言っていると、今村が顎ひげを太い指で撫でた。

「……いやでもな。顔見んのも大事なんだよ、やっぱり」

「なんすか急に」

 ふいに落とされた真面目な空気に一颯が戸惑っている間に恭平がすぐさま聞いた。こういうところの空気の読み方はピカイチな奴なのだった。なお、相手のための空気ではなく、その場を握るための空気だ。

「あーいや、お前らが元気ならいいわ。学校なんてその積み重ねだからな」

 今村は少し気まずそうにして、忘れろ、と言わんばかりに右手をひらひらと振った。恭平がそこで引き下がるわけがない。天然を装っているくらいの軽やかさで重ねた。

「元気じゃない人がいるんすか?」

 むむ、と困ったように今村の眉尻が下がる。

「そうじゃないんだが」

「そういや先生、卒アルが燃やされて警察が来たって」

 今村はじっとりと恭平を睨むと、はああと大きなため息をついた。恭平がニヤリと笑う。一颯は素知らぬふりを貫くべくなるべく動かないようにしていた。

「梨本、お前まじで……」

 先生、ちょっと気持ちわかります。と同情しながら悪友の顔を盗み見る。クラスや部活のグループがSNSで盛り上がりを見せていたときはほぼ関心を見せていなかったくせに、妙に記憶力も察しも良かったりするから侮れないのだ。それでいて圧をかけるタイプではないので、頭を低くした変なポーズで頭上で手を合わせ、「先生、おなしゃす!」とふざけている。こういうところが腹が立つところでもあり人たらしな一面でもあった。

「……まあいいや。俺もちょっとお前らの代に話聞きたいとは思ってたしな。でもお前らを信用してのことだから。他には言うなよ」

「あざっす」

 今村は少し声を顰めた。

「お前らの代の卒アルが、登戸当たりの河川敷で燃やされかけてたんだよ。というか、火に気付いた通りがかりの男性が声をかけたら、火をつけてた人物が慌てて逃げ出して、そこに卒アルがあったんだと」

「え、じゃあ目撃されてるんですか」

「そう。ただ、女の子だったってくらいで、背中しか見てないらしく誰かはわかってない。その情報だけじゃ、うちも生徒の半数が女子だしな。絞りようにない」

 卒アルを燃やすという行為もよくわからないが、場所などを踏まえても困惑するだけだった。学校から特別近いわけでもない。もちろん近隣に住んでいる人はいるだろうが、特別なゆかりを感じたりはしなかった。

「お前ら、なんか知らないか?」

「いやー残念ながら知らないっすね。噂で聞いただけで」

「俺もです」

 だよなああ、と今村は脱力した。

「別にさ、その後何か事件が起きたりしてるわけじゃないし、追わなきゃいけないことでもないんだよ。でも、ちょっと気になるだろ。なんでそんなことしたのかさ。何か嫌なこととか、考えたくないけど恨みとか、想像しちゃうだろ。もし何かあるなら――俺や学校ができることなんてたかが知れてるが、力になりたいとも思うしな」

 卒業生の事件なんて一番嫌なんだよ、と呟く。

 確かに、自分では燃やそうとは全く発想しないものだ。なんの意図があったのか、少し不気味にも感じた。それを抱えた人物がもしかしたら自分たちの学年にいる。そう想像してみても、あまりにピンとこなくて、自分とは近い位置ではなさそうに思った。

 いくら首を捻っても正解は出ないので、立ち上がって椅子を片付ける。

「じゃあ、月末っすね」

「おう。山頂のカレー奢るくらいしかできんが、頼むな」

 出て行こうとデスクの間の通路を進もうとすると、一泊遅れて今村が口を開いた。わずかな迷いを含んだ口の動きだった。

「……B組の宮城か、森下か、C組の西条と最近連絡とってないか?」

 西条、という名前に心臓が一瞬固まるような気がした。なぜ今花霞の名前が? そう考えている間に、恭平が返答している。

「宮城さんはインスタで見ますよ。よく投稿してるけど、うーん、普通っすかね。森下ってサッカー部っすよね。卒業後は知らないなあ。西条さんは――」

 恭平の声が耳に入ってこなくなる。本当なら、最近会いましたよという場面だろうけど、一颯には何も説明できることがなかった。元気ですよと言い切って良いのかも、その一歩先も。だが、次の瞬間、

「あ、でもそうだ。西条さん、最近一瞬見たって聞きましたよ。三Aの同窓会に偶然居合わせたって――ってお前、いただろそこに」

 と恭平が背中を叩いてきた。そっちのことはすっかり頭から抜けていた。二人で話したことを頭に巡らせていたので、急に対応できずに口ごもる。

「あ、ああうん」

「どうだったよ様」

 様子、と恭平が言い終わる前に、今村が被せた。

「西条に会ったのか」

 その前のめりな迫力に驚いて少し体がこわばった。

「はい、会いました、ちょっとだけ……。でも、居合わせちゃっただけなんで、すぐ帰って――」

 ごくりと唾を飲み込む。

「でも、なんで西条さんな」

「先生、これっすか」

 またも言い終わらないうちに、今度は恭平が遮った。見ると、その手には見覚えのある本を持っている。結構な大きさと重量のある――卒業アルバムだった。

「あっ、梨本、お前それ」

 今村が取り返そうとするが、同じ瞬間恭平が冊子を開いた。何度もそのページが開かれていたのか、最初に見えたところに息を呑む。

 笑顔の証明写真のようなカットと名前が並んだページで、一部が黒く焦げていた。反射的にそれが誰のところなのかに目を滑らせる。右から二行目。一番上にいるのは加藤。その次、名前は黒くなっていて見えないが、確か栗田。飛んで――下に宗田。心臓が嫌な鳴り方をした。改めてページの右上を見ると三年C組の文字がある。恭平が一ページ前に捲ると、こちらにも少し焦げがあり、そこに先ほど名前が挙がった宮城と森下がいた。だが、二人に半端に跨っている上に、範囲も小さい。気付いたら呼吸が浅くなっていた。

「梨本……どうやって見つけたんだよ」

「普通に先生の机にありましたよ。っていうか、さっきプリント探すときに一瞬触れて、ちょっと奥に追いやったので、もしかしたらって思ってたんすよね。今でも卒業代の卒アル机に置いとくってなんか不思議じゃないですか」

 恭平はあっけらかんと笑った。

「だから急にこの件のこと聞き出したのか……」

 今村は頭を抱えた。

「ワンチャン、ってくらいでしたけどね」

「俺はお前がたまに怖いのよ、現役のときからさ」

「賢いっすからね(ハート)」

「語尾にハートをつけるな」

 諦めた今村と恭平のコミカルな会話の横で、一颯だけが早まった鼓動を持て余していた。誰かが黒く塗りつぶされているという光景自体がショッキングだった上に、黒く見えなくなったところにあったのは、花霞の写真で――数日前の衿葉の言葉が蘇る。

『……もしや、吉井って、花霞に長年の想いをくすぶらせてるヤバい奴?』

 なんだよそれ、と思っていたのが繋がってしまった。どうやら、自分が花霞に惚れて思いが通じず恨んで燃やしたと思われていたらしい。改めてなんだよそれ、と思うと同時に、その説は絶対に違うことがわかってしまう。だって、今村の話した目撃情報で、去った人物は「女子」だったのだ――。

 思い至ると、もうその仮説しか考えられなかった。胸の中に黒い煙が立ちこめるように、ずっしりと気分が重くなる。

「ほら、どうした一颯、行くぞ」

 気付いたら一点を見つめたまま立ち尽くしていた。

 もうドアまで移動した恭平の声ではっとする。

「おう」

 慌てて歩を進めるが、上の空だった。

 廊下に出て、玄関口を目指す。何歩か離れてから、職員室を出るときに失礼しましたと言ったっけ、ということが急に気になるが、全く思い出せなかった。おそらく恭平が言ってドアも閉めたのだろう。

「西条さんって恨まれるような人だっけ? あれはちょっとギョッとするよな」

 呑気な声で恭平が聞く。

 ただのゴシップであれば「マジですごかったな」でも「だよな〜」でも好きにリアクションすれば良かったが、今の一颯にとっては違った。つい固い声になる。

「……そんなことないと思うよ。いい子だし」

 言ってから、変な発言だったかもしれない、と考えたが、恭平は気にしなかったようだった。

「あ、そっか、一颯は一時期ちょっと仲良かったよな」

「文化祭のときだけな」

「そうだっけ。なんか隣の席になって授業中喋って怒られてただろ」

「お前、よくそんなこと覚えてんな……」

「俺は頭がいいからね」

 薄暗い廊下を通って玄関を出ると、外はすっかり暗くなっていた。

 抱えたものを夕闇に紛らわすようにして、一颯は帰路についた。


   *

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る