第6話
どこか不安を抱えながらも翌日カフェを訪れると、花霞はちゃんとそこにいて、入り口から見える二人がけのテーブル席でそわそわと待っていた。まっすぐ向かおうとして、少し躊躇して足が止まる。もしここで声をかけずに前を通過したら、花霞は自分のことがわかるのだろうか?
一瞬、落とし物ですよ、みたいなカマをかける接触を試してみたい気持ちに駆られ、すぐにやめた。そこでわからず「私のじゃないです」なんて言われたとしたら、意地悪以外の何物でもなくなる。花霞を傷つけたいわけじゃなかった。
一颯はもう一度歩き出すと、迷わず花霞の前の椅子を引いた。持っていたトートバッグをその椅子に下ろしながら、驚いたように花霞が少しだけ動きを止めたのを視界の端で捉えていた。座らないまま、目を合わせて言う。
「吉井一颯です。高校の同級生で、色々知ってて、今日待ち合わせしてる」
花霞はぱっと表情を明るくし、一颯がコーヒーを買いに行こうとすると、
「待って。今日は奢ります。お礼だから」
と制止した。
「……そうだった。じゃあ、お言葉に甘えて」
花霞は頷くとスマホを持って席を立った。入れ替わりに腰掛ける。
カウンターで注文する彼女の背中をそっと見た。柔らかそうな大きめなシルエットのグレーのセーターに白のロングスカート。ちょっと傾げた首と、おそらくコーヒーを「一つ」のタイミングで挙げた人差し指。こうして眺めるだけであれば、やっぱり仕草も見知ったままに思えた。
戻ってきた花霞はカップを一颯の前に丁寧に置いてトレイを自分のものと重ねると、座って改めて小さく頭を下げた。
「昨日は、本当にありがとう」
「いや、ほんと、大したことじゃないから。奢ってもらっておいてなんだけど」
少し笑うと、花霞も安心したように笑った。その解れ方を見て、彼女がめちゃくちゃ緊張しているのだとわかってしまった。花霞の話の通りであれば、また自分のことは「誰なのか」わからなくなっているはずだった。お礼をしてくれているけれど、どこまでその内容が「わかって」いるのか不明だ。この人誰だっけ、という状態で目の前にいるというのは結構ハードな状態に思えるけれど、それをあえて選んでここに来て、とびきり緊張していたと思うとなんだかおかしくなってくる。高校時代の花霞も、決してお堅くはないのにどこかで真面目でまっすぐで、そんな性質は変わらないんだなと一人で懐かしくなった。
もらったコーヒーを一口飲んで、尋ねてみる。
「……西条さん、このあとどうするつもりだった?」
つい語尾に笑いが含まれてしまう。お礼なんてほんの数分で終わってしまうのに、コーヒーはまだ残っている。一気飲みすることもできなくはないけれど、それもいかにも気まずいですという感じになるだろう。目の前に現れる知らない男相手に、少なくともコーヒーを飲み終わるまでの時間、何をどうする気だったのかわからなさすぎて、変な律儀さが浮き彫りになっていた。
ツボに入ってくすくすと笑う一颯に「な、なに急に」と花霞は小さく抗議した。戸惑いながらも、自分が笑われているということは感じ取っているらしい。ただ、納得する部分も大きかったのか、渋々という様子で、
「とにかくお礼したいって、それだけで」
と小さく口にした。最後の方がもごもごしている。ますますおかしくて、
「まさかのノープラン」
とつっこむと、
「だ、だって」
と困ったように眉尻を下げた。
「うそうそ。じゃあ、ちょっとだけ聞いていい?」
「う、うん」
「俺のこと、どれくらいわかってるの?」
花霞はバツが悪そうにした。
「……ごめんなさい。本当のところ、全然」
「昨日のことは覚えてる?」
気まずそうに首を横に振る。
「会話とかは覚えてるけど相手は誰だっけ、となるわけじゃなくて、全部わからなくなっちゃうんだ?」
「そういうことが多いかな。全く思い出せない大昔の知り合いとかに近い気がする。いたじゃん、あのときなになにしてたやつ、って言われても、そもそもそんなことあったっけ? となっちゃうというか」
「まあ確かに、できごとを覚えてれば、大抵それが誰だったかも覚えてるか」
通常はたまには「あのとき骨折してたやつ誰だっけ」みたいなこともありそうではあるが、花霞の記憶はそうはなりづらいらしい。考えながらコーヒーを少しずつ飲む。
「起きたことも覚えていられないと、さすがに不便なことも多くて、できごととか大事な会話は日記にメモするようにしていて……だから今日も、ここで待ち合わせをしている同級生に、昨日のことをお礼する、とはわかっている感じ」
「それがどんなやつかはわからずここにいたの? どうすんの、俺が変なやつだったり、実は無関係なナンパ師に声かけられてたりしたら」
「えっ、ナンパ…!?」
想定もしていなかったようで少し慌てている。
「なんか心配になるな。いや、そもそも心配になるしかない状況だけど」
「なんか、吉井くんって、結構ストレートに言うね」
花霞はわざと恨めしそうな顔をしてみせた。
「いや、明日には忘れられちゃうからね」
少しおどけると花霞は一瞬眉をひそめて、おかしそうにあははと声を出して笑った。ちょうどコーヒーを飲み終わる。それがわかるようにソーサーにカップを置くと、一颯は間髪入れずに立ち上がった。
「じゃあね、西条さん。わざわざありがとう」
花霞も飲み終わったことを見ると引き止めたりはせず、小さく手を振った。
「こちらこそ。……じゃあね」
彼女のじゃあねはいつも、心なしかより切実な「じゃあね」に聞こえてしまう。実際もう会わないという気持ちが乗っているんだと思うとなんだか心細いような気持ちになった。小さな寂しさを捨て置くように歩き出す。また知らない人になる。そして今度こそ、花霞との関わりは最後になるだろう。一颯は振り返らずに店を出た。
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