第4話
帰り道、乾燥でピリつく頬をなるべくマフラーにうずめるようにしながら、なんとなくすぐに電車に乗る気になれなくて、東北沢まで一駅余計に歩いた。暗くなった住宅街ではほぼ人とすれ違うこともなく、自分の足音だけを聞きながら花霞の言葉を反芻した。
――普通にしてくれたから嬉しかった。
果たして普通にできたのかはわからないけれど、花霞の言うとおりなら、そう思ってくれたことすら、もう思い出さないということなんだろう。
そうしたら、短い時間だけでも楽しんでもらえたって思っていいのかな。
問いの答えが出ることもないのだから、考えても仕方がない。振り切るように首を振った。駅のホームに着いてスマホを確認すると、いつもは見ない数の通知が来ていた。一月に成人式で会ったばかりなのもあってか、警察の噂があっという間に駆け巡ったようで、開いてみると、高校スキー部の同期グループにも回ってきていた。ただし、もう「卒アルが燃やされてたって聞いた?」まで短縮されていて、伝達とはこういうものかと変なところで感心してしまう。そこに「びっくり」という呑気なスタンプを送ってきた恭平の名前を見て、昼間のことを思い出した。
《姉ちゃんに余計なこと言ったな》
送るや否や、すぐに電話がかかってくる。電車が来るまではまだ時間があった。
「悪いって。夏芽さん、新ネタがないと取り合ってくれないじゃん?」
悪びれずに言ってきた小学校からの腐れ縁の友人は、なぜかずっと姉に好かれようとして自らしもべをやっている。整った顔の秀才なのにドMという、宝の持ち腐れ感満載の残念なやつだった。
「それ、完全にカモにされてるだけだから。姉ちゃんがお前を相手にするわけないっていうか、そもそも、姉ちゃんの良さがわからなすぎてお前がわからない」
「えーそうかあ? 夏芽さん美人だしモテるだろ」
「それがいっそうわからないんだよ……」
確かに姉は美人の部類かもしれず、ちょっとしたモデル活動や女優をしていたりした経歴の持ち主だった。だけど、弟をやっている身分からすると、美人かどうかよりも性格が大事だ。
「身内だからだって。中身もかわいいよ、俺からすると」
「マジで俺に言うな。あと、俺は直近でふられたりしてないんですけど」
「それはまあ、半年前のこととは言わずにね」
へらっとした顔が想像つく軽い声が耳に流れ込んでくる。
「傷を蒸し返すなよ」
ランプが光ってアナウンスが鳴り、停車しない急行がホームを轟音で通り過ぎていった。
「あれ、そんな傷ついてたん?」
そう聞かれるとなぜか気まずい気分になる。
「いや……ただ、腑に落ちてないだけ」
「あー。上原ちゃんの振り文句ね。『吉井くんって、多分私のことそこまで好きじゃないよ』『どうしても欲しいって思わないでしょ』だっけ?」
通話口の向こうの声が愉快そうに笑っている。
どこのバカが一言一句違わず記憶してるんだよ、と苦い顔になる。そのセリフにろくに答えられなかった自分の情けなさまでひっくるめて、なんとも言えない思い出だった。
「えぐるなって言ってるだろ。……大体なんだよ、どうしても欲しいって」
「んー、漫画とかでよく見るフレーズではあるけど、この場合エロいことじゃないっていうのは確かだな」
「俺だって馬鹿じゃないからそんなことわかってんの」
「だろうね。それに一颯はどういう意味かもわかってるでしょ、本当は」
いきなり核心をついてくる。こういうときの声音が低くなるのが、こいつの一番ずるいところだと思う。
「……いや」
「そうだなー。一颯はさ、レストランに女の子と行って、「え〜全部美味しそうだね。二つ頼んでシェアしようよ」って言われたら、「じゃあ好きなの二つ頼みなよ」っていうタイプだからね」
「なんだよそれ」
寒さのせいかそもそもホームにいる人の数が少なく、冬の空気の静けさの中で恭介の声がいやに響いた。
「最初は嬉しいし、なんかジェントルマンに見えるし、さすが夏芽さんに鍛えられてるだけあって多少スマートに振る舞えるから印象いいだろうけどさ」
まもなく、二番線に、と女性の声のアナウンスが鳴った。
「そのうち、一緒に本音でいいねって言い合いたいのにとか、じゃあ俺これがいいなっていうのを教えてほしいみたいな気持ちになるんだろうね」
「うるさいな。お前は俺の後をつけてたのかよ」
ちゃらんぽらんとかキモいとか評されながら中高一度も学年一位を譲らなかった変態の洞察はさすが外れていなかった。事実、どっちもかなり近いことを言われたことがある。でも、希望がないものはないのだからどうすることもできなかった。
「あ、当たり?」
電話の向こうで恭介はうははと笑った。
「一颯が必死になってるとことか、こだわりを見せるところが全然ないからさ。自分から興味を持ってるところとか。今までの彼女も全部向こうからだったよね?」
遠くから電車の音が近づいてきた。冬の空気を切ってさらに強く吹く強風がダウンジャケットの裾をはためかせる。
「上原ちゃんにさ――上原ちゃんじゃなくてもいいんだけど。俺ほんと好き、今から会いたい、とか言ったことないっしょ?」
「……ないけど。そんなのみんな言わないだろ」
分析されているのはどうにも居心地が悪くて、余計な一言を付け加えてしまった。みんなではなく、特に自分が苦手なのだとわかっているのに。
「えー? 俺は言うけどね、夏芽さんに今から会いたいですって」
なんとなく猛烈に腹が立って滑り込んできた電車の煌々とした明かりを睨みつけた。プシュ、と音がしてドアが開く。
「……電車来たから切るわ」
はーい、とムカつく呑気な声色が放り込まれる。
電話を切りつつ車内に乗り込んで、ドア横のスペースに体を預けた。謎の疲れもプラスされて、いつもより沈み込むような気がした。
そんなに眩しくないまばらな夜景を眺めながら、いつの間にか思考の中で十人を選ぶことを考えていた。花霞と同じように両親は必須だとして、姉は――もちろん不要だとは言えない。でも、祖父母はどうかと考えると、住んでいるところが遠く割と疎遠で、実生活を優先するなら保留かもしれなかった。花霞の十人にも祖父母は揃っていなかったなと思い出す。もう他界しているとかなのか、それとも――。
家族を姉までだとすると、残り七人。友人を選ぶとして、頻繁につるむスキー部のメンバーは同学年に十二人。無意識にほんの呼吸ほどのため息をついた。全員にできないなら、やっぱり恭平だけ――と思うとムカつくけど、多分そうなるだろう。じゃあ、それ以外の人は。
元カノである上原のことを覚えているだろうかと考えると、簡単にノーが出てしまった。
――吉井くんって、多分私のことそこまで好きじゃないよ。
――どうしても欲しいって思わないでしょ。
また耳に残ったセリフがリフレインする。好きじゃなかったわけじゃない。
だけど、どうしてもほしいものがあるかと問われると、喉につかえるような気まずさがあった。
十人しか選べないというのに、まさかの六人空席? もう会うことはない過去の知人に忘れたくない人がいたっておかしくないのに、すぐには思い浮かばなかった。
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