第3話

 覚えてないのに? という気持ちより、どこかで嬉しい気持ちが勝ってしまった。

「本当にいいの?」

 花霞がいた二人がけのテーブルの向かいに移動しながら、もう一度聞く。

 自分から誘ったくせに、花霞は緊張の面持ちだった。それでも、自分の荷物をソファに置き直し、荷物置きを譲ってくれる。食べかけのクリームパスタも手前に引いてくれ、空いた場所に今さっき受け取ったばかりのコーヒーを置いた。

 ごめんね、覚えてないのに――なんて言ってもしょうがないもんな、と話題を探す。自分のことは記憶になくても、先生とかなら、と思い当たって、

「あ、聞いた? 松岡先生ってこの春退職らしいよ」

 と無難なテーマを持ち出した。二年時担任だった物理担当は今年で定年らしかった。

「……へえ、そうなんだ。知らなかった」

 花霞は妙な間で、会話が続かない返事をした。

「松岡先生、好き嫌い分かれてたよな。俺はズバッと言う感じが意外と好きだったんだけどさ。西条さんはどっちだった?」

 沈黙が訪れるより、ともう一段階踏み込むと、花霞は今度は眉根を寄せて、そのまま十秒ほど黙り続けた。その指先は力が入って白くなっている。

「……」

「えっと、ごめん。言いづらいこととかだったら別に」

 さすがに限界が来て沈黙を破ると、花霞はぎゅっと目を閉じてさらに眉間のしわを深くして、それから小さな声で、でもはっきりと言った。

「ごめん、覚えてないんだ」

「え、あそっか、意外だな、西条さんってしっかりしてるし、先生フルネームで把握してそうっていうか」

 ふざけるように茶化すと、花霞が口の端を小さくほころばせた。

「いくら私でも、フルネームは怪しかったよ」

 目尻もちょっと柔らかく下がる。笑ってくれたのが意外で、つい上がったテンションのまま、思い切ってもう一段階ふざけてみる。

「……今は、フルネームどころか全部?」

 いじられることが少ないのか、花霞は一瞬目を丸くして、あは、と笑った。

「ひどい。普通、ちょっとさすがに遠慮しない? ――えっと」

「吉井一颯です」

「……吉井くん」

 丁寧に置くように苗字を繰り返した花霞は、どこか吹っ切れたような顔をしていた。

「あのね。意味がわからないと思うんだけど」

 そのまま、高校時代から変わらない、心地よい鈴のような声で続けた。


「私、今、ひとを十人しか覚えていられないんだ」


 カフェの賑やかな音が一瞬無音になったような気がした。

 花霞は言い切った、という感じで、小さく息をついた。視線を上げてこちらを見る。先程までの気まずそうな感じはなくなっていた。冗談を言っている風でもないけれど、意味がわからない。一颯は困惑を隠すようにコーヒーに口をつけた。その間にも、額に花霞の言葉が降ってくる。

「夏にちょっと事故に遭っちゃって、それから……なんて言われても困るよね。その、失礼すぎるってわかってはいるんだけど、吉井くんのことも、先生のことも、なんにも覚えてないんだ。今、十人埋まっちゃってて」

 まるで定員制の何かみたいな言い方に混乱する。場を持たせる意味でもつい突っ込みたくなりつつ、さすがに「なんだそれ!」はたぶん正解じゃない――と頭をフル回転させた。それってどういうこと? 本当に覚えてないの? なんて深く掘るのがいいのかわからない。事故って大丈夫だったの? とかも、なんだか答えづらいような気もするし、今聞いていることが事実なら大丈夫とは言えないのかもしれない。というか、そもそも覚えていられる人数が限られるなんてありうるのか? 聞いたことのない現象だった。だとすると、やっぱり「なにそれ」が一番聞きたいことだけれど――。

「定員十人じゃ、さすがに俺入れないわ」

 選んだのはどれでもなかった。

 勇気がなかった、も、どうすればいいかわからなかった、もどちらも正解だった。ある意味、一番ぶつからない言葉で、できるだけさっぱりおどけてみせた。こういうときの器用さばかり、自分は際立っているような気がする。冗談めかして唇を動かしながら、頭のどこかで、じゃあ俺のことは本当の本当に覚えてないんだな、と考えていた。

「なにそれ。吉井くんって面白いね」

 花霞はくすっと笑った。まるで初めて知ったみたいだが、そこそこ笑わせてたけどな、と苦笑する。こうなったらヤケで、花霞の話に合わせて質問しまくることにした。

「ていうか十人って、なんで十人なの」

 切り込んでこられるイメージがなかったのか、花霞は小さく驚きながら答えた。

「わからない。両手で数えられるからかな」

「なんだそれ」

 今度は突っ込んでみる。

「毎日ちゃんと両手で確認してるんだもん」

 花霞は冗談なのか本当なのかわからない声音で言った。一瞬だけ、ちょっと泣きそうにも見えた気がして、もう一歩、花霞に寄ってみることにする。

「なるほどね。十人って誰なの?」

「……ねえ、そんなに聞く?」

 どうしよう、となぜか慌てている様子の花霞に半眼で聞いた。

「あのねえ。西条さんはむしろ、同席して、それ切り出して、その後なんの話するつもりだったわけ」

「いや、あの、元々は、無難な話でもできたらと……。なんだか、あの近距離でじゃあねってするのも気まずくて」

 ぷは、と笑いが漏れる。

「わかるけど、そこは死守だったんじゃないの? 俺が振った先生の無難な話題、難しかったわけだし」

「……そうだよね。本当は、「私も好きだったよ」なんて知ったかぶりで言っちゃうことも考えたけど、全く覚えてないのに、なんかこれ以上は墓穴になる気がして……」

 ズカズカ踏み込んだからか、花霞も素直に口を開いているようだった。そんなんで普段どうしてるんだよ、とちょっと頭を掠めるが、まあいいやと聞き直した。

「で、十人って誰なの? 西条さんのベストテン」

 空気を重くしないように軽口を叩くと、花霞は指折り数え始めた。

「お母さん、お父さん、おばあちゃん、敦子おばちゃんって……母方のおばさん。あと、ミカと環……は幼なじみ。中学のときの下田先生。地元の駅前の文房具屋のおばちゃん。大学が一緒の沢井さん」

 左手から折れ始めた指は右手に渡って、最後の小指だけを残している。

「それから、もみじ」

「もみじ?」

 少し変わった名前だな、と思っていると、

「最近飼い始めた犬なんだ。柴犬」

 かわいいよ、とちょっと甘やかな顔で花霞は言った。

「犬! 犬も十に入るんだ」

 つい反応してしまうと、「そうみたい」とちょっと眉を八の字に下げて頷く。

「ちなみに、最近ってことだけど……その」

 あれ、これは聞いていいのかな、と逡巡すると、察知したように花霞が言った。

「うん、それまで覚えてた、初恋の男の子と入れ替えたんだ」

「入れ替え……」

 想像以上にシビアなワードに、つい繰り返すだけになる。システムはよくわからないが、本当に定員があるようだった。

「私も、もしかして犬は別だったりしないかな、なんて思ったけど、だめだった。もし忘れちゃうとしたら……って、初恋の男の子のこと、たくさんメモしてから飼ってみたけど、後でそのメモを見ても、さっぱり、思い出せなくて」

 目の前で言われていることは半分以上意味がわからないのに、花霞には全くふざけている様子はなかった。本当に? という言葉をずっと胸のどこかに抱えながら、精一杯会話をつなぐ。

「沢井さんって、もしかして」

「あ、そうか、高校の同級生だもんね。そうそう、高校も一緒の沢井衿葉だよ。もうめちゃくちゃ、助けてもらってる」

 一颯は三年のときだけ衿葉と同じクラスだったが、そんなに個人的な関わりはなかった。学級委員だったのでよく前に立っていて目にしてはいたが、ちょっと姉に似ていて強引なところがあり、苦手なタイプだったりする。あまり知っていることもないのでもっと気になっていたところを聞いた。

「ていうか、なんで文房具屋のおばちゃん? 傍目には、初恋の男の子残しとかないでよかったのかなって思っちゃうけど」

「……おばちゃんは、小学校のとき、万引きを疑われた私を信じてくれた人だから。ずっと通ってたの。引っ越しちゃったから、最近は全然行けてないけど……」

 その目はどこか遠くを見るようだった。何かを思い出すときの仕草。先程から誰の話をしても、花霞に「思い出そうとする仕草」がなかったことを今さら実感した。

「そういう、大事なことまで忘れちゃうと、私が私じゃなくなっちゃうような気がして」

 困ったように笑って眉尻を下げる。私が私じゃなくなる――少なくともさらっと出てくる言葉ではないように思えた。

「ま、それなら初恋の男の子が退場かもな」

 わざと笑って言うと、花霞もぱっと明るい顔をする。

「そう、初恋だったからって、どうせもう、会うこともないしね」

「他の友達はいいの? 意外と会うけど」

 自分なら、親以外は部活のメンバーとかで埋めてしまうかもしれない、と今でもゆるゆると仲のいい高校スキー部の面々を思い出す。こうしてミラクルでもなければ遭遇しない男子なんかはともかく、女子同士の付き合いはあるだろうに、と考えていると、花霞は一音ずつしっかりと答えた。

「いいの。誰かを選ぶのも、違う気がするし」

 その声音にはっとする。

「……ごめん」

 先程から散々、選んだ人の話をしていたのに、今ひとつその重みがわかっていなかったことに気がついた。自分のなかで、十人だけを選ぶということ。もう嘘だとも思っていないけれど、本当だとして、大変なことかもしれない。

 花霞は文句を言うように口を尖らせて言った。

「だから、意外と考えてるんだよ。家族と、いつでも私の味方でいてくれるおばさん。それから、いつまでも親友だと思える幼馴染の二人。大きな感謝がある先生と文房具屋のおばちゃん。大学に通えてるのは衿葉のおかげだし……。多分、衿葉以外の人には、仙人か何かだと思われてるんじゃないかな。めっちゃ忙しい苦学生って設定で、授業終わったらすぐ姿消しちゃうし。衿葉がフォローしてくれてなかったら、ボロも出てる気がする。それから……」

 一気にしゃべったかと思ったら、少しの間口をつぐむ。

 続けた言葉はカフェの喧騒の中でも直球で届く真摯さだった。

「絶対に、私を忘れない子」

 伏し目がちに「もみじ」を思う顔は愛しさで溢れているように見えた。もし、限られた人数しか自分で大切にすることができなくなったなら、それはなるべく、自分を大事にしてくれる人であってほしいに違いなかった。

「……ごめん」

 いいのいいの、変な話してるのは私だし、と花霞は笑った。その笑顔は高校時代と変わらないことに、少し切なくなった。

「そろそろ行こうか」

 閉店まではまだ少しあったけれど、お皿もマグカップも空になっていた。食器を一つのトレイに集めて持っていく。

「ありがとう」

 律儀にお礼を言うまで待っていた花霞と一緒に店の外に出ると、暖かかった室内から一転、厳しい冬の風が頬を冷やした。空はすっかり濃い黒になっている。街灯が明るくて、星はほとんど見えなかった。

「じゃあ私、こっちだから」

 その風に柔らかな髪をなびかせながら、花霞が右手を指さす。

「うん。じゃあ」

 軽く手を上げて別れようとすると、花霞はちょっと寂しそうに笑顔を消して、

「ごめん、次会っても……覚えてないと思うけど」

 と言った。

「おう、いいよ。わかった」

 なるべくなんでもないようにさらりと答える。そのとき強く風が吹いて、両方の手をダウンのポケットに突っ込んだ。

「吉井くん、普通にしてくれたから、嬉しかった。さよなら」

 立ち去りながら、花霞は大きく手を振った。


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