第2話

 大学の五限を終えて、代々木上原の駅から数分、木々に囲まれた公園のような一角にある広めのカフェにやってきた。大きなガラス窓に、真鍮の小さなパーツで「cafe springスプリング twilightトワイライト」とある。

 全面ガラス張りの店内からはオレンジの優しい光が漏れる。暮れかけの道路に落ちている建物や木の紫の影に重なるとなんだか綺麗で、一颯はこの店を気に入っていた。近頃急に日が長くなってまだ薄く明るいのが、いっそう複雑な色の重なりを作っている。

 ワイヤレスイヤホンを外してポケットに放り込み、大きなガラスドアに手をかけて押すと、りん、と耳に心地のいいベルが鳴った。爽やかな「いらっしゃいませ」と「お好きな席にどうぞ」が続けて響く。カウンターの後ろにある黒板には手書き文字で今日のメニューが並んでいた。ドリンクはもちろん、結構豊富なカフェご飯が食べられるお店だ。夜はお酒も飲めるし、店内の各所には本棚が設置されていて自由に読みながらくつろぐこともできる。

 やっぱここなら、と確信した。人に丸投げしてくるわりに注文が多いクラスの女子たちも満足なはずだった。普段はもっぱら学食とかラーメン屋とかに行く中で、課題や読書に集中したいときにたまに来る店で――紹介してしまうのは少し惜しい気もするくらいだけれど、会が盛り上がってくれたらそれが一番だ。

 とりあえず、いつものようにカウンターでコーヒーを頼んで窓際の席に座る。ひと口飲んで改めて店内を見渡した。

 貸し切り三十人は余裕で入れそうで、公式サイトでは、パーティー使用OK。

 幹事の中心メンバーが使いたいと言っていたスクリーンもあるはずで、一応位置を確認しようと首を回して店内を見る――と、一颯の席の真後ろ側の奥の天井に下ろして使えるスクリーンがあるのを確認すると同時に、見知った顔が目に飛び込んできた。

「……西条さん?」

 驚いて数度瞬きする。

 細い肩と、手首や指先。なぜかいつもまとっている涼やかな清潔感。高校生のときセミロングくらいだった髪は短くボブになっているけれど――間違いなく、高一、二年と同じクラスだった西条さいじょう花霞かすみだった。

 部活もグループも違うと会うこともなく、姿を見るのも卒業式ぶりだ。黒いニットにキャメルのワンピースを重ねているシンプルないでたちで、私服を初めて見たのに彼女らしい気がした。食べ始めたばかりらしいクリームパスタをフォークに巻いて口に運ぶ、その控えめな口の開け方もなんだか懐かしい。頭の片隅ではこのあと店員さんに貸切の交渉をする予定が進んでいるのに、目が離せず、つい見入ってしまった。

 と、そこで花霞が顔を上げてこちらを見た。

 ――やばい、見すぎた。

 そう思って顔を背けようとして、今更感じが悪いかと思い直し、右手を小さく上げた。

「久しぶり、西条さん」

 じっと見てしまった気まずさもあって、一緒に照れ笑いが漏れる。

 すると、今度は花霞が数秒こちらを見て、目を逸らし、消え入りそうな声で意味不明なことを言った。

「初めまして……じゃないんですね」

「……え?」

 本当に知らない、という感じの温度のない言葉にギョッとする。同時に、その声は間違いなく花霞のものだった。

「俺?」

 恐る恐る人差し指を自分に向ける。自分に言っていることはわかっているのだが、予想を大きく裏切る反応にまともな言葉が出てこなかった。はい、と花霞が小さく頷く。覚えてないどころか、敬語――。ごめんクラス一緒だったけど名前出てこないや、みたいなことではなく、存在が丸ごと記憶されていないことに、少しだけ焦った。

「あ、覚えてない? 一、二年でおんなじクラスだった……」

 気まずさを和らげたい意識で、トーンを上げた声が出た。

 クラスメイトでしかなかったとはいえ、文化祭の模擬店準備を一緒にしたこともあるし、その後隣の席になったこともあるし――何より、花霞はどこか芯のある真面目なタイプの女子で、当然全部の授業のノートを取っていて、消しゴムを忘れて慌てていたら気づいてくれるようなところがあって、お世話になっている先生に年賀状とか送り続けていそうな感じで、つまりは、クラスメイトを二年やそこらで忘れるようには思えなかった。

 ――流石に存在自体は覚えてるぞ、どんなにぼーっと過ごしてた俺だって。

 こういうときは男子の方が適当で覚えていなくて、女子はどこまでもしっかりしているイメージを持っていたし、ましてや花霞が、と動揺が頭を駆け巡って、すぐ違う説に思い至った。

 ――いや、俺が存在感なかったのかも――西条さんにとって。

 気づいてしまうと結構ショックだった。コミュ力も低くない方だと思うしクラスでも普通に馴染んでいたし、と勝手な期待をしていた恥ずかしさが襲ってきて、両手を前に出して弁明した。とても真正面を向けず、左下に視線を彷徨わせる。

「ごめん、覚えてないならいいんだ。俺そんな関わりなかったし」

 焦って席に向き直ろうとした足が机を強く蹴ってコーヒーカップが揺れ、液体が派手に溢れた。

「あ、うわ、マジか」

 一人で焦って立ち上がる。花霞が何かを言いかけていたようにも見えたがそれどころではなかった。横の荷物置きに置いていた鞄にまで垂れてしまい、慌ててカバンを持ち上げてから、そもそも拭くもの、と思ったとき、背後から花霞の声がした。

「これ、よかったら……。借りてきたから」

「……え? あ、ありがとう」

 花霞が手にしていたお店のテーブル拭きを受け取り、机とカバンを拭いていく。

 冷静になってくると、あれ、と気づいた。

「今、敬語じゃなかったよね」

 勢いよく振り向くと、花霞はまだ後ろに所在なさげに立っていた。

「……同級生って言ってたから」

 覚えてはいないけど、というニュアンスが隠れている。

 なんだよそれ、と脱力すると、花霞は自分の鞄から財布を持ち出した。

「コーヒー、弁償させて」

「え? いいよいいよ、俺の不注意だし」

「でも、私のせいだと思うから。お願い」

 いや、覚えてないんだったら尚更いいよ、と言いかけて、その瞳の真剣さに嫌味ったらしくなりそうな言葉を引っ込めた。

「じゃ、じゃあ、お願いします」

 こちらがつい敬語になる。カウンターへと向かっていった花霞の小さな背中をぼんやりと眺めた。

 高校二年生の秋、文化祭準備で熱気に溢れた学校の一角の、静かな廊下がフラッシュバックする。五人の班でクラスの縁日の看板を描くはずが、三人が部活だのなんだのと見事なサボりをキメて、集合したのは一颯と花霞だけだった。それまで一度も喋ったことのない男子と二人なんて嫌だろうなと思い、「やー、なんかごめんね俺と二人で」と冗談めかして謝ったら、花霞は「なんで残った吉井くんが謝るの?」とあははと笑った。思ったよりも無邪気な笑顔だった。それから、「むしろ、一人にされなくてほっとしたところだよ」と悪戯っぽく言った。一颯も「確かに一人で三メートルの絵は死ぬな」と笑って、あまり人の通らない廊下に思いっきり広げて、二人で勝手に描き進めて――自分でも不思議なくらい、あのときの声ごと再生できる鮮やかな記憶だった。

 カウンターを左にずれて、コーヒーが抽出されるのを待っていた後ろ姿が翻った。小さなトレイに載ったコーヒーを慎重に運びながら花霞が戻ってくる。その姿から目が離せなかった。これはきっと、すごいことなのだ。高校時代の同級生なんて、いつかまたと言いつつ一生会わずに終わることも多分思ったより多いのだから、今こうして会えただけでも奇跡的に違いない。きっと。当時は見ることのなかった私服で、お互いにちょっと大人になっていて、高校生の頃の自分なら選ばないコーヒーなんて飲んでいて――偶然この時間に同じ場所に来て、気づいたというだけでも。だから、自分の小さなうぬぼれなんて、忘れてしまえばいいだけだ。覚えられていないのがなんだ。そう考えたとき、席に到着した花霞が言った。

「よかったら、一緒にどうかな」


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