♦︎第三章 快楽と祈り♦︎
静寂が満ちていた。
鏡の中の世界は、今日も変わらず白く、静かだった。
ただ一つ違ったのは、アリスの頬に残った微かな紅。
それは、昨日の指先の余熱。
赤の女王の、命の雫。
また来る、と言った女王は、本当に現れた。
その姿は少しずつ、少しずつ色を失っていく。
髪は艶を失い、瞳は夜明けの星のようにかすれていく。
それでも、微笑む。
それでも、触れる。
「きみの胸が波打つたび、わたしは嬉しいの。
痛みでも、怖さでもいい。
感じてくれるだけで、わたしは、ここに存在していられる」
指先が、鎖骨をなぞる。
耳元で、熱を孕んだ囁きがこぼれる。
唇が、肌をかすめるように触れた瞬間、
アリスの喉から、微かな息が漏れる。
「っ……や、だめ……それは……」
「気持ちいい?」
「ちが……う……!」
「じゃあ、どうして震えるの?」
女王の声はやさしく、痛々しい。
そのやさしさが、アリスにはいちばん怖かった。
それは、自分がかつて誰かに向けていた声と、同じだったから。
「……そんなの、愛じゃない……」
「うん。そうかもしれない。
でも、わたしにはこれしかないの」
赤の女王はアリスの唇を指でなぞり、
そっと額を寄せる。
二人の間にあるのは、祈りのような沈黙。
快楽では埋まらない、祈り。
「アリス。わたしね、愛って言葉が分からないの。
でも、あなたを感じているときだけ、世界が美しく思えるの。
それが“好き”ってことじゃないなら、他に何を信じればいい?」
アリスは、何も返さなかった。
けれど、拒絶もしなかった。
ただその場に座って、目を閉じ、
女王の気配が去るまで、そっと手を胸に置いた。
その手の下が、なぜか熱いことに、
アリスは気づいていた。
──その夜、赤の女王は独りごちる。
「このまま、わたしが消えてしまえばいいのかな」
「でも……最後に、一度だけ。
あの子が、自分から触れてくれるなら」
命を削る祈りは、
愛という名の痛みへと姿を変えて、
明日へと続いていく。
そして――アリスの夢の中。
初めて、赤の女王の微笑みを見る。
それは、かつて侍女が最後に残した笑顔と、
少しだけ似ていた。
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