♣︎第二章 赤の女王、鏡を叩く♣︎

 鏡の奥に沈むアリスの世界。

 音はなく、色もなく、ただ白い光と影だけがゆっくりと揺れていた。


 その静寂を、コン……と叩く音がする。


 最初は、水面に落ちた小石のようだった。


 二度、三度、音は重なり、やがて明確な“意思”を持った指先の音になる。


「アリス・エレノア・ホワイト」


 呼ぶ声がした。


 それは、あまりに艶やかで、あまりに紅く、

 まるで熟れた果実の汁を垂らすような、淫靡な響きだった。


 アリスは、聞こえないふりをした。

 目を閉じ、呼吸を潜める。


 でも、その声は諦めない。

 あたかも、最初から“聞かれないこと”を知っていたかのように。


「ねえ、アリス。鏡の中は、あたたかい?」


 紅の女王。

 名もない存在。生まれながらにして女王と呼ばれた者。


 その髪は深紅に波打ち、瞳は血のように燃えていた。

 けれど、その姿にはどこか、哀しみがにじんでいた。


 彼女は、自らの指先を鏡に押し当てる。


 じゅ……という、静かな音がする。

 皮膚が焼けるように、存在が削れるように。


 それでも彼女は微笑んだ。


「わたしは、こっちには生きられないの。

 でも、あなたに触れたいから、今日も、少しずつ、死にに来たの」


 鏡の中のアリスは、まつ毛を震わせる。

 彼女の心は揺れていた。けれど、動こうとはしない。


 紅の女王は、頬にかかる髪を払って、唇をゆるやかに歪めた。


「知らないの、アリス。

 人は誰かに触れられるとき、いちばん“自分”を思い出すのよ」


 ゆっくりと、その手が鏡を通り抜けていく。

 肩まで、腕まで、深く、深く。


 代償に、女王の髪から紅が一房、色を失って消え落ちた。


 アリスの背後に、その手が触れる。

 背筋がぞくりと震えた。まるで氷の舌でなぞられたように。


 けれど、同時に、ほんのわずかな熱が残る。


 それは“愛”というには、あまりに歪で、

“優しさ”というには、あまりに官能的だった。


 だがそれが、紅の女王にとっての愛の証明だった。


「私には、これしかないの。

 快楽だけ。

 それだけが、私の『好き』なの」


 アリスは、何も言わない。

 でも、目をそっと開ける。


 その瞳の奥に、わずかな“赤”が宿った。


 紅の女王は、微笑んだ。


「また来るわ。明日も。

 あなたがこの檻から出てくるその日まで、

 わたし、命を削って愛しに来るわ」


 鏡の中で、アリスはゆっくりと、膝を抱えなおした。

 その指先が、微かに震えていた。


 それが寒さか、熱か、自分でも分からなかった。


 ──紅の指は確かに、ここに触れた。

 ──心の奥の、まだ温かい部分に。

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