第18話 帰巣本能
ビジネスホテルのフロントで「延泊料金をお願いします」と事務的に告げられ、順太郎は財布を開いた。
残っていたのは、虚空がふざけ半分で販売した土竜Tシャツの売上の残りだけだった。大半は宿泊費やタクシーに消えており、延泊など到底できない。
「……ちょっと待ってください」
小銭をかき集める指が震える。フロントの女性は冷たい視線を投げ、後ろの宿泊客はあからさまに舌打ちをした。
結局、支払えず、順太郎は大きなゴミ袋ひとつを抱えたままホテルを追い出された。
夜の街に立ち尽くし、彼は小さく呟いた。
「……帰るしかない」
玄関の引き戸が開いた瞬間、重苦しい沈黙が流れた。
出迎えたのは父だった。すでに定年を迎え、静かな老後を夢見ていたはずの男。その顔に浮かんでいたのは疲労でも怒りでもなく、深い落胆だった。
「順太郎……またお前か」
それだけを言うと、父は背を向けた。
母は心を病み、施設に入所している。
妹は大学を出て社会人となり、家庭を持ち、もうここにはいない。
父に残された老後は、静かな一人暮らしのはずだった。そこに再び転がり込んできた息子が、全てを踏みにじった。
食卓で並んだ父の言葉は短かった。
「俺はもう、穏やかに暮らしたいんだ。それを……全部お前が壊してる」
声は低く、怒鳴る気力すらない。
順太郎は箸を持ったまま俯いた。食欲もなく、ただ空虚な胃袋が縮こまっていた。
だが、夜になると承認欲求の残滓が疼き出す。
リビングの古い共用PCを立ち上げ、匿名アカウントを開く。
光る画面に顔を照らされながら、彼は自分に言い聞かせた。
――まだ、終わっていない。
父の老後を壊している現実よりも、ネットの中の自己像を選び取ることでしか、生きることができない。
ある夜、順太郎は自室の押し入れで小さく丸まっていた。
匿名アカウントで久々に投稿した独り言めいたつぶやきが、わずか数分でスクリーンショットされ、拡散され、炎上していた。
「ミームを汚すな」
「神聖な土竜様を勝手に動かすな」
「本物が一番つまらない」
ネット民たちは次第に嘲笑では足りなくなり、怒りのような熱狂に変わっていった。
翌日、家の前に見知らぬ車が停まっていた。
若者たちが玄関先で叫ぶ。
「おーい、モグラァ!顔出せや!」
父は警察を呼ぼうとしたが、受話器を掴む手は小さく震えていた。
暴動のような騒ぎは日を追うごとに悪化していく。ポストには「死ね」「出ていけ」と殴り書きされたハガキが押し込まれ、チャイムは昼夜を問わず鳴らされ続けた。
そして、最悪の出来事が起こった。
ある日の午後、帰宅した父が玄関の鍵が壊されているのに気づいた。
家の中は荒らされ、押し入れの衣服は散乱し、居間の棚からは祖父母の遺影が消えていた。
「……何を、してくれるんだ」
父は力なく呟いた。
盗まれたのは遺影だけではなかった。机の引き出しにあった郵便物がごっそり消えており、その日のうちにネットに住所と本名が晒された。さらに、順太郎が施設に入った母のために買ったiPadも奪われ、その中の写真データまで無断で公開された。
父は膝から崩れ落ちた。
「もう、俺には……静かな日常すら許されんのか」
順太郎は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ネットの中で生まれた熱狂が、現実の家を壊し、家族の人生を踏みにじっていく。
それでも――画面の光を浴びると、心の奥底に疼く渇きは消えてくれなかった。
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