第14話 トーキョードライブ

八月の蒸し暑い夜。順太郎はアパートの玄関に、ありったけの荷物を詰め込んだ黒いゴミ袋を三つ並べた。服も、ゲームソフトも、動画撮影に使っていた安物のマイクも、すべて詰め込んだ。段ボールにすればよかったが、引っ越しではなく「逃走」だから、ゴミ袋のほうが手っ取り早かった。


 ドアの外には、再びやって来るかもしれない無言の訪問者たちの気配があった。ドアスコープ越しに人影はない。だが、掲示板に貼られる悪質な落書き、ポストに投げ込まれる中傷ビラ、深夜のチャイム連打。すべてが順太郎をこの狭いアパートから追い出していた。


 タクシーにゴミ袋を押し込むと、運転手は露骨に顔をしかめた。


「兄ちゃん、引っ越しかい? この時間に?」


「……いや、事情があって」


「事情ねえ。ゴミ袋で家出かよ。くせえな」


 順太郎は言い返したかったが、喉の奥で言葉がもつれて出てこない。代わりにガラケーから乗り換えたばかりの安いスマートフォンを握りしめ、画面に浮かぶ「虚空」という名のメッセージを見つめていた。


《迎えに行く。持ちこたえろ》


 その短い文面にすがるしかなかった。だが、有り金は底をつきかけていた。運転手に行き先を告げるときも「ちょっと待ってくれ」と濁し、距離を稼ごうとする。


「おい兄ちゃん、先に金あるのか? なかったら降りてもらうぞ」


 車内のラジオからは、無関心なニュースキャスターの声が流れていた。「人気ユーチューバーの年収は数千万円にも――」という言葉が、順太郎の耳に刺さる。自分だって、その一歩手前まで来ていたのに。だが現実は、タクシー代すら怪しい。


 タクシー代をめぐる言い争いを経て、土竜はどうにか上京を果たした。虚空の実家に転がり込もうとしたものの、玄関先で「絶対に家に入れるな!」と家族総出で拒絶され、しぶしぶビジネスホテルにチェックインする。

 狭いシングルベッドの上にゴミ袋から取り出した衣服を広げ、彼は膝を抱えていた。オーバーグラスを外すと、異様に細い目が蛍光灯に晒され、余計に哀れを強調した。


 翌日、虚空がホテルまで迎えに来た。

「おい順太郎。今日は人に会わせる」

 そう言ってタクシーに乗せられ、向かったのは渋谷の雑居ビルの一室だった。そこには、虚空の仲間たちが小さな映像制作の拠点を構えていた。


 そこで土竜の目に飛び込んできたのは、一人の女だった。

 ――はず希。かつてセクシー女優として活動し、今は名前を変えて裏方を手伝っているという。三十代半ばに差し掛かっていたが、整った顔立ちと落ち着いた物腰は、土竜のような男にとって眩しすぎる存在だった。


 「こ、こんにちは……」

 土竜は思わず背筋を伸ばした。だが、その声は妙に上ずり、口元は引きつっていた。


 はず希は柔らかい笑みを浮かべ、「ああ、この人が例の……」と虚空に視線を向ける。虚空は片手を挙げて短く答えた。

「そうだ。ネットで有名な“土竜”。まあ今はミームのおもちゃだがな」


 ――その言葉に、はず希は曖昧な笑みを返した。

 だが土竜は、その一瞬の視線を「自分を認めてくれた」と勘違いする。心臓が高鳴り、スマホを握る手にじんわりと汗がにじむ。


 それからというもの、彼の頭ははず希のことでいっぱいになった。

 ビジネスホテルの薄い壁の向こうで隣室の咳払いが響いても、深夜のテレビ通販が虚しく流れていても、順太郎はスマホのメモに「はず希に会う方法」「連絡先を聞くタイミング」といった稚拙な計画を書き連ねていた。


 やがて、配信の中でも彼女の名前を口走ってしまう。

「えー、今日もオーバーグラス配信でーす。……はず希さん、見てますかー?」

 その瞬間、コメント欄は爆笑と罵声で埋まった。

《やめろ土竜www》

《ストーカー宣言かよ》

《虚空に怒られるぞ》


 ――炎上の火種は、もう撒かれていた。

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