明葉 ドーナツ屋にて

学校の放課後、ビーチではしゃぐ恋人や海の家でいちゃつく恋人を横目に3人の友達と海岸沿いの道路を歩いていた。


「今日はどこか寄ってく?」


私は少し不貞腐れたように聞く。別にいちゃつく恋人たちを見て対抗しようして青春ぽいことをしようと思ったわけではない。


「ごめん。今日から夏期講習で……」

「私はこれから家族で埼玉に帰省する準備しなきゃ」

「私もパス。今日は彼s……」


そう一人の友達が言いかけたとき、私達3人はその子のことを大げさに振り返って見る。


「ごめんて」


そう言って四人で笑いあって解散した。

一人駅に残された私は、いつも四人で寄っている駅前のドーナツ屋へ足を踏み入れた。一歩入った瞬間、砂糖の甘い香りに包まれたが、今日はなんだか満たされない気持ちで席に着く。いつもなら、愉快な仲間と机を囲んで楽しい気持ちになっているはずだが、今日は1人寂しく席に着く。いつものドーナツを購入して席に戻ると、視線の先には1人の男子生徒がいる。いつもの四人で来るとき、いつも決まった席で、決まったものを、決まって一人で放課後に食べている彼。私の目には彼が輝いて見えた。私は彼を知っている。何故なら、学校中でうわさが立っているからだ。


『優翔君は優しすぎてお近づきになれねぇ』

『あの人本当に親切でさー』


というように、良い噂が多く流れている。善人という言葉は彼のためにあるのだろう。いや、むしろ彼から生まれたと思ってしまうほどにぴったりなのだ。しかし、その言葉とは反対に、


『あいつ、何言ってるか分かりにくいよな』

『なんかめっちゃ言葉詰まってたんやけど』


こんな悪い噂も流れているようだ。友達の一人曰く、今年から転入した彼の声は確かに低かったり、言葉が詰まったりして、言っていることが伝わりづらいことは幾度となくあったらしい。しかし、誰もそんなこと気にしないほどに彼の言動が信用に値するものだったようだ。そのおかげか、最初の噂に比べたら、数は少ない。おそらく、彼の優しさが気に入らない男子がテキトーに流した噂だろう。彼が素敵であるという噂を聞いたその日から、ドーナツ屋で、見かける彼の動作全てが優しさに包まれているような感じがして、目が離せなくなった。


どうやら私は彼のことが好きなようだ。


しかし、私はこれまで恋愛という恋愛をしてきた経験がない。どんな風に話しかけるのか、どんな風に話しかけるのか、どんな風に笑えばいいのか、そんなことが全て記されている書物があれば今の私ならどんな値段でも買ってしまうだろう。そんなことを思いながら、私は買ってきたドーナツの輪を崩そうとしたその瞬間、気づいた。私も彼も一人。話しかけるのなら今が好機なのでは!と。しかし、私にまだそんな勇気は無い。机の下で両足をパタパタさせながら彼に話しかけに行くかを迷う。数分の迷いの後、意を決して席を立ち、彼がいるはずの席に視線を向ける。だが、彼はいなくなっていた。慌てて周りを見回すと、退店しようとする彼の背が見えた。追いかけようかとも思ったが、今行ってもどうしようもないと思い、思いとどまってその場に残り、一人でドーナツを頬張った。

一週間後、また友達が塾やら帰省やら恋人やらで一人でドーナツ屋へと足を運んでいた。中へ入り横目でいつもの席を見ると今日もまた彼は一人でいた。夏日がひまわりの黄色をさらに色濃くしていくようなこの一週間、私たちにはこの店に来る日と来ない日があったが、私たちが来た日には毎日いた。一人で。同じものを。同じ場所で。今日こそは……と意気込んだものの、やはり話しかける勇気が私に込められない。


一度深呼吸をするー。深くー。深くー。


心の中で知らぬ間に赤くなった頬をパチンと叩いて気合いを入れるー。


中学まで陸上部に所属していた私が当時、大会の試技の合図であるスターターピストルが会場中に響き渡る直前まで、瞳を閉じて同じことをしていた。あのとき熱中してい陸上のルーティンをするほど、今、私が立っている場所は重要な場面なのだ。

少ししてから彼の席に視線を移す。幸いにも、彼のドーナツは未だランドルト環と同じ形を保っていた。ちょっとの間、彼のことを見つめてから席を立って彼のもとへ歩み寄る。しまった。なんと声をかけるべきなのかを考えずにきてしまった。しかし、彼の席はもう目前だ。今ここで引き返しても不審に思われてしまう。それは避けたい。焦った私から出た一言目は


「いつも一人で食べててさみしくないの?」


……やってしまったと恋愛をしたことがない私でもそう自覚するほどに酷い声の掛け方をしてしまった。恋愛どころかお友達になれるかすら怪しい、人間としてよくないものだった。加えて、私の声はよく通り過ぎてしまうため、店内中に水面に映る波紋のように響いていく。まただ。彼に、周りにいる人に迷惑になってしまったはずだ。昔からこうだ。私の声は良い意味でも、悪い意味でもよく通ってしまう。そのため周りの子からは、うるさいだの、やかましいだのと言われてきた。そんな私のコンプレックs……


「綺麗な声やなあ」


私の考えていることを横切ったその言葉に私は咄嗟に疑問の声が漏れた。


「は?」


今の今まで自分のコンプレックスであった私の声を「綺麗」と彼は言ってくれたのだろうか。信じられない出来事に私の聞き間違いだろうと思い、もう一度聞いてみる。


「何て言った?」

「いやっなななんでもない」


「大丈夫?」


彼の耳は熟したさくらんぼのように赤く染まっている。一応の心配として「大丈夫?」と聞いてみたものの返事はない。焦って言葉に詰まった彼には悪いが、今ならこの勢いで相席できるのではという気持ちが私を後押しする。


「ここ座ってもいい?」

「え?」


私も焦っている側なので落ち着かせるために、彼返事を待たずに目の前の席に着いてしまう。一度深呼吸をして落ち着かせる。ついでにさっきまでの行動を振り返る。……なんてことをしてしまったのだろう。私の声が綺麗と言ってくれたとかいう変な勘違いを一人でして……彼が焦っている隙に強引に席に着いて……おそらく、いや、絶対に今の私の印象はこれ以上下がることの無いくらいまで落ちている。ここから挽回せねば。


「あなた名前は?」


白々しくあたかも名前を知らないように振る舞ってみる。


「ゆ、優翔です」

「私は明葉。もしかしてあなたって転校してきたあの子?」

「覚えてるんだ」

「当たり前でしょ。学校であんな……」


全てを言い切る前に止めた。もう彼も自分の噂についてはしっているはずだ。言わなくてもいいだろう。

ふぅ。

やっと落ち着いてきた。


「それより、きょ、今日はどうして僕のところに?」


どうしよう。何も考えていなかった。テキトーに……しかし、そのテキトーさえも浮かんでこない。


「なんとなく」


つい口から出た言葉は後の言葉を率いて口から離れていく。


「今日は私も一人だったから。それに、あなたどんな人か気になってたし」


咄嗟に出た言葉だったが、中々良かったと思う。しかし、「どんな人か気になって」この言葉をどう受け止めるだろうか。彼は。噂の話をしたからうわさの影響だと思われるかな。本当は恋愛的な興味で、好意で話しかけたのに。今、加えて言ってしまおうか。あぁ、この想いが伝わっていれば良いけど。


「ぼ、僕は試されていたのか」


彼は場を和ませようと、ものあたりの優しい声でそう言う。すると、私の心をがんじがらめにしていた様々な想いの鎖が解け、一気に心が軽くなっていく。そのせいで少し笑いが漏れる。それを見た彼もつられて笑う。こんな時間が永遠に続いてほしい。

その後の話の内容はよく思う覚えていないが、ふと店内の時計を見ると2時間が経っていた。


「あっそろそろ帰らないと」

慌ててそう言う。今日は母親と夜ご飯を作る予定だった。急いでトレーを重ねてカウンターに戻し、彼と二人で店を出た。


彼を駅まで見送る。改札に入る寸前でかれは口を開いた。


「また……夏休み中、ドーナツ屋でお話ししませんか?」


私はその言葉に喜びの感情が抑えられなくなってつい頬が緩む。しかし、そんな顔を彼に見られたくないため、パッと改札と逆方向の私の帰路へ顔を逸らす。そしてそのまま頷くのが精一杯だった。そしてそのまま彼の顔を見れないまま自転車で走り出した。

交差点を通り、坂道を登っていく。その合間に今日のことを振り返る。散々やらかしてしまってが、私にとって、今日初めて彼、優翔くんと話せたことが一番の出来事だった。思い返しながら自転車を走らせていると、気づけば家の目の前を通り過ぎていた。引き返そうとも思ったが、胸の鼓動が鳴り止まないため、家の周りを周ることにした。

本当に素敵な1日だった。しかも最後に夏休みにも会う約束を……叫びたい気持ちを抑えて、夢中になって自転車を漕いだ。追加で二周してから家へ帰ったが、それでもまだ収まらない。玄関前で空を見上げると、日が落ちかけていることに気づいた。今日の北極星は、いつもよりも輝きが増して見える。ふふっと笑みが溢れた。


「ただいま」

「おかえり」


お母さんだ。


「遅かったね。さぁ、夜ご飯作るわよ。……あら、何かいいことでもあった?」

「別になんでもないよ」

「本当に?なんか顔が緩んでるわよ」

「えっ」


母だから全てお見通しだったのではなく、全く制御できていない私の表情が今日の幸福を物語っているようだった。それから1時間ぐらい後に母と夜ご飯を食べた。


「冷蔵庫にデザートあるから食べちゃいなさい」

「はーい」

私は軽く返事をした後、冷蔵庫を開いた。そこにはスーパーのドーナツがあった。今日食べたばかりだったが、なんだか体が甘いものを欲していたため、すぐに食べた。しかし、一口食べた瞬間、違和感を覚えた。甘さはある。生地の味もする。それだけしかなかった。いつもならこの二つで満足するが、今日、特別な体験をした私には全く物足りなく感じてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る