あのドーナツ屋で

しまえなが

優翔 夏のドーナツ屋にて

 潮風の香りと海の家から流れてくるソースの香りが鼻先をなでる、高校2年の一学期の今日、いつものように帰り道でドーナツ屋に寄る。店内には聞いていて心地の良い音楽が空気を小気味よく震わせ、多種多様なドーナツの甘い香りが立ち込めている。さらに、多くの学生が青春のフィルムを消費していた。しかし、僕はいつものドーナツをカウンターで購入し、いつもの席に着く。一人で。一人きりで。青春の一ページを共有する友達も、ろくにいない。

 そんなことは忘れてまずはドーナツと合わせて購入しておいたカフェオレを口にする。牛乳の甘さよりもコーヒーの苦味が少し勝るこのカフェオレが次に甘いドーナツを欲しがる。僕は欲望のままドーナツをかじろうとした。しかし、口に入れる瞬間、僕と同じ高校の制服を身に纏った一人の女子が近づいてくるのを目の端で捉えた。一瞬、用事があるのは僕じゃないという考えが頭をよぎったが、周りに対面の二人席を利用している客の姿は無かった。刹那の後、彼女は空席の前に立って言った。


「いつも一人で食べてて寂しくないの?」


店内で行われていた客の会話は一瞬の静寂を孕み、こちらに視線を向けた後、再び騒がしくなる。彼女の一言は、はっきりと、芯のある声で空気を揺らした。普通ならここで、恥ずかしくなったりだとか怒りが湧いたりしてくるのだろう。しかし、僕は全くそんなことはなく、彼女の声に聞き惚れてしまった。透き通っていて芯がある、雨雲を穿いて晴れにさえしてしまうような声にどうしようもなく惚れてしまったのだ。自分でもあんなことを言われたのだから腹が立ってもおかしくないと思った。だが、そんなことはどうでもいいと思えるほどに彼女の声に惹かれた。そんなことを思っていると


「綺麗な声やなぁ」


僕の口から確かにそう漏れたのだ。つい、思っていたことが先走ってしまったらしい。


「は?」


強い語気で彼女は一音を吐いた。彼女は怒っているのだろうか。そうだろう。質問も返さず、気持ちが先走って言い放ってしまったのだから。


「なんて言った?」


……どうやら彼女には伝わってなかったようだ。彼女の口元が少し緩みを見せた気もしたが、おそらく気のせいだろう。僕の声は周囲の会話、調理場の作業音、ドアの開閉の音それら全てに流されてしまったようだ。


「いやっなんでもない」


我ながら情けないと思う。ここでもう一度さっきの言葉を送ることができたらどうなっていただろう。もしかしたら彼女の目に僕が恋愛対象として映るのかもしれない。僕がこんなことを思うのは彼女の声ときめきを抱いてからというものの、彼女の仕草、ボリュームと艶のあるボブカット、全てが魅力的に僕の目に見えていたからだ。


「ごめん。なんていった?」


はぁ。またか。僕は心の中で呆れと諦めが混じった吐息を漏らす。昔からこうだ。僕の声は小学五年生のときに呪いをかけられてしまった。思春期という魔女が僕の前に現れ、魔法の杖を一振りして僕の声を電車の轟音のような低さの声へと変えたのだ。声自体、そんなに気持ち悪いと思われるようなものではなかった。低さだけが問題だったのだ。世の中には声が低い人など五万といる。しかし、そういう人たちは大抵の場合、会話の嵐の中でも自分の足で立っていられる。しかし、僕の声はどれだけ声を荒げても、相手に届くことはない。そんな呪いに僕は絶望して会話をすることにも嫌気が差していた。何度も何度も聞き返されては、また聞き返され、最後には相手は怪訝な顔を残してどこかへ行ってしまう。今回もきっとそうなるんだろう。


「いやっななななんでもない」

「大丈夫?」


彼女は心配する表情で僕を見た。僕は神から会話をすることを許されていない。いつも言いたいことが詰まって、初めの文字を繰り返してしまう。おそらく吃音症なのだろうと自分でも気付いていた。声が低くなって、話すことがことが怖いと感じ始めてから症状が現れた。この症状は、僕に声とって最悪の組み合わせだった。口を開けば、相手からは決まって聞き返しの言葉が返ってきて、それに焦った僕が返答をすると、最初の文字に詰まって引かれてしまう。このせいで、僕は今日も一人、ドーナツを頬張っていた。学校の帰り道、今日の絶望を胃の中へ流し込むために。


「ここ、座っていい?」

「え?」


彼女はそう聞くと、僕の返答も待たずに半ば強引に目の前の空席に腰を下ろした。少し間をおいた後、彼女から口を開いた。


「あなた、名前は?」

「ゆ、優翔です」

「私は明葉。もしかしてあなたって転校してきたあの子?」


彼女の口から僕のことを知っていたかのような言葉が聞こえ、心が少し浮き足立つ。そう、僕は高校二年生という大事な時期が始まるこの時期に親の都合でこの、神戸へ来たのだ。


「覚えてるの?」

「当たり前でしょ。学校であんな……」


彼女は途中まで言いかけてやめた。浮き足立っていた僕の心は地に足をつける。おおよそ何を言おうとしていたのかは予想がつく。おそらく、学校で流れている僕の悪い噂だろう。転校してきた初日、前と同じ轍は踏まないよう頑張ろうと意気込んでいたにも関わらず、クラスでの自己紹介で今日と同じような流れがあった。それを見たクラスの男子が面白がって、他クラスに僕のことを話したのが始まりだった。

僕が通う学校では他にも色々な噂が立ち込めているようだった。休み時間中、クラスの女子たちが恋愛の話、所謂「恋バナ」に花を咲かせているとき、盛り上がりすぎてつい、大声である男子の良いところを大声で共有していたのだ。周りの友達はその子を落ち着かせていたが、彼女の言った内容には大いに同意していた。僕が聞いていた限り、その「ある男子」が誰かは分からなかったが、僕なわけが無いと思って「ある男子」を羨望していた。


「それより、きょ、今日はどうして僕のところに?」


少し時間が止まったあと、僕から話を切り出した。


「なんとなく。今日は私も一人だったから。それに、あなたがどんな人なのか気になっていたから」


僕への興味は二の次だったらしい。しかし、僕は少しふざけた感じで


「ぼ、僕は試されていたのか……」


と言うと、そんなことを言うイメージがなかったのか笑ってくれた。その後は、他愛もない話をゆったりと流れる時間の中で交わした。


「あ、そろそろ帰らないと」


彼女がそう口にしたのはあの、衝撃的な一言から2時間も経ってからのことだ。こんなに人と会話をしたのはいつぶりだろう。人との会話を避けてきた僕の心には、ここ最近で一番の幸せに感じられた。いつものドーナツは砂糖の甘さと若干の塩っ気しか舌に残らないはずだが、今日はなぜかいつもと違う甘さが混じった味がした。その後は店を出て、僕は駅まで彼女が見送ってくれた。別れ際、何か言わなくてはと思い、咄嗟に


「また……夏休み中、ドーナツ屋でお話ししませんか?」


そう聞く。すると彼女は何も言わないまま、彼女の帰る方向を向いて頷いて帰っていった。

僕は改札にへ入り、海の見える駅のホームへ降っていく。電車が来るまでの間、さっきのことについて思い返す。彼女のあの行動は渋々了承したことを表しているのか。はたまた僕の誘いへの喜びを抑えきれなくなって、そっぽを向いてうなずくだけになってしまったのか……そうだったらもしかして……もしかするのでは?いや、やめよう。そんなことあるはずがない。こんなことを考えていても、気持ち悪い奴になってしまうだけだ。駅メロと共に時間通りに到着した電車に乗り、海側の席に座る。

今日の車窓から見る海は、夕焼けの色と夜空の暗さに支配されていてなんだかいつもより、綺麗に思えた。

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