第13話

 危うく、溺れ死んでオチになる所だった。まぁ、それはそれで『吾輩は猫である』のようで興があるのかもしれないが、どうせ溺れて死ぬのなら、浴びるほどの酒を飲んで、ベロベロに酔ってから、水面の月を掴もうとして死にたいものだ。そのくらいでなくては無粋だ。

 しかし酷い夢を見たものだと、脱衣所に向かいながら思う。一体夢とはどういう材料を拾ってきて作り上げられるのだろうか。今のところ無遅刻無欠勤で、真面目なやつだと評価されているのだから。もっとも、皆勤賞に対する拘りは、中学校を卒業する時、我らが学び舎に置いてきたが。小中合わせて九年間皆勤賞で、休みといえば小学校の卒業式の直前、インフルエンザで出席停止になった1回きりである。あの頃は、休むことが即ち悪であるという観念に囚われていたが、高校に上がってからは、流行り病の混乱で出席や欠席が有耶無耶になっていたこともあってか、朝起きて気が乗らない日はそのまま休むなんてこともあった。だから今でも休むことが悪だとは思わないし、気が向かなければ休めば良いと思う。しかし、多少の社会性を身に着けた今は、人付き合いのことも考慮するから、敢えて無断欠勤しようとはしない。

 こういう風に自分の外側にある倫理規範に従っているから、無意識の方では、自分の好きなように休めば良いと言って、欲望を満足させるような夢を見せたのだろうか。いや、フロイトが言うには、そういう欲望充足型の夢、それも直接にそれを実行するような夢は、幼児の頃にはよく見るが、成長するとそうもいかない。象徴的な別のものに代替された歪曲した夢になるのだそうだ。だから夢占いというのは、大抵はバーナム効果に過ぎない。それに、彼が言うには、殆どの夢は性的欲望を充足させる目的があって、それが歪められて見えているらしい。だから、今回はこれ以上の詮索はよしておくのが良かろう。読者諸君も、もし精神分析を専門にしている、或いは興味があって勉強中だから、分析の試行回数を増やしたいというのでなければ、門外漢は黙っているのがよろしい。

 ひたひたと足音を立てながら湯気をかき分けて行く。見ると、私たちが入ってきた頃にいた男は既にいなかった。

 ここは家の風呂のように、入っている内に段々と湯の温度が下がっていく訳では無い。湯の温度が下がると、体温まで奪われて、外が酷く寒いので湯から上がるのが億劫になる。しかし、今は体が火照っていて、なんの躊躇もなく外に出られる。

「自分もお風呂に入る時はいつも寝るけど、溺れるのは初めて見た。」

「慣れないことはするべきじゃないね。お前ぇもその内死ぬんじゃねぇか?」

「いやぁ、博文と違って慣れとるけぇ、死なんよ。」

「けっ。」

ここは分が悪い。変な恩を着せられる前に切り上げよう。

 厄介なセールスを躱した所で、今度は極めて自然に、あるべき欲求に絡め取られた。喉が渇いたのだ。やはり風呂上がりには珈琲牛乳かフルーツ牛乳が飲みたくなる。温泉はあまり好きではなかったから、訪れる機会も必定少なかったのだが、それでも風呂上がりはこの二つの内のどちらかを飲むものだと刷り込まれているーそれが瓶の牛乳で、紙の蓋を外して飲むものだと尚良いー。大抵はどちらかを気分で選ぶのだが、今日はどちらにしようか。しかし、二十を過ぎると妙な知識と想像力とが身に着いて、寝る前に珈琲を飲むと眠られなくなるのではないかと些か厭わしく思うことがある。珈琲牛乳程度で睡眠が妨げられるのならば大したもので、実際はさしたる効果も無いのだろうが、思い込みの力を無視することもできない。後顧の憂い無く飲むことができるのはフルーツ牛乳なのだが、選択肢が無くなるというのも何だか寂しいように思う。

 こういう欲動に駆られるせいで、向かう先にある牛乳の自動販売機がポラリスのように輝いて見える。一度通った所でも、道標が異なれば随分と違って見える私が夢の中で蒼惶している間に変わった所もあれば、変わらぬ所もある。私たちが風呂に入った時にいた男は、目が覚めた時にはそこには居なかったし、風呂から上がってもいないところを見るに、既に帰ったのだろう。それとは対照的に、受付の間談判を続けていたご婦人方は、今だに話の着地点が定まらないと見える。あの時と同じ席で話し続けている。何をそんなに話す事があるのかと思ったが、よく考えてみれば、我々国語教育を専攻する学生も、素面で訳無く四時間くらいは話し込む。学生の時分、現代文の教師はやたらに話が長いと思っていたが、国語の教師だから滔々と話し続けるのではなく、国語の教師になるような人間は生来話が長いのだから、私も彼女らとは同じ穴の狢というわけだ。

 さて、いよいよ自販機の前に立った。

「晋作はぁ。珈琲牛乳とフルーツ牛乳どっち派や?」

「自分は牛乳派かなぁ。普通の牛乳。」

「第三勢力出んなよ。普通この二択やろ。」

「え〜?普通?それはちょっと、ねぇ?あれじゃない?狭くない?あれ、あの〜。」

「見識、もしくは了見な。」

「それ!」

「残念でした。今のは無効試合。」

「くっそー。」

この変人に同意を求めたのが間違いだった。そんなことよりも、今は目の前の問題に集中しよう。今しがた珈琲が云々と言った所だが、最近は懐に余裕がある。それに折角の旅行なのだから、放縦な振る舞いも許されよう。それも旅の醍醐味だ。両方とも買ってやろう。

 鈍い音と共に、二本の瓶が連続して落ちてくる。プラスチックの戸を開けて、それらを両手に持つ。先程の会話から、或いは常識から推し量って、どちらかだけを買うと思っていたやつが、何も言わず続けざまに二本目を購入した様子を見て、晋作は目を疑ったようだ。

「おいおい〜。」

得意になって北叟笑みむ。瓶を親指と人差し指とで挟みながら、手でお金の形を作り、上下に軽く揺する。

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湯田温泉記 @Umi1108

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