第12話

 浴槽は幾つかあって、それぞれの選択肢は等価に思えるが、実際には流動している。今回はジャグジーにしよう。ここから一番近くーといっても精々数mの差でしかないがー、誰も入っていないので独占できる。その上、それぞれの噴水口が壁で仕切られていて、個々人で使えるようになっており、誰にも邪魔される懸念がない。

 湯舟には、丁度頭だけが水面から出るようになる高さで段差がある。そこに腰掛けてから背面のボタンを押すと、水流と共に気泡が排出され、体の背面と脚とを刺激する。それがとても心地良い。いつだったか初めてジャグジーを使った時は、今ひとつその良さが分からず、以来何となく使ってこなかったのだが、その認識を改める必要がある。

 風呂にしては少し低めの、ー三八度くらいだろうかーぬるま湯が体を包み、筋繊維の一本一本を解して洗われているような気分だ。今日ここまで歩いてきた分も含め、日頃から溜め込んできた疲労が流されていく。

「あっちの大浴場行ってくるわ。」

隣の部屋で寛いでいた晋作が、立ち上がりながらそう告げる。私は黙って右手を挙げてそれに応える。暫くは一人でゆっくりここを堪能したい。


  「疲れた。こんなものだろうか。」博文はゆっくりと両腕を上げて体を伸ばす。背骨から小さく泡が弾けるような音がする。

  今日は午後から18時まで授業があった。12月になり、ほんの一瞬の秋は、その気配を感じた頃には居なくなっていた。時刻は7時半を少し回った所で、外はすっかり真っ暗だ。少し前まではこの時間でも、間接照明のような仄かな斜陽があったのだが。

  普段なら授業が終われば、山口や熊さんなんかと雑談を交え、そこそこにして家路に就くのだが、毎週この日ばかりはそうもいかない。何故なら、この授業は、当日中にレポートを提出しなければならないからだ。コンピューターやインターネットが普及する前は、こんなことも無かったろうに、それが今では23時59分の提出期限が横行している。それを可能にする技術の進歩も考えものだと、博文は不満に思った。

  1時間半前に終えたばかりの授業内容をレポー

 トにした所で、その中身は軽薄極まるものだ。体

 裁だけを整えた虚木に過ぎないと思うが、こんな

 面倒なことはとっとと片付けるのがよろしいと、

 ファイルを添付して送りつける。

 「じゃーなー。」

 「お疲れー、バイバーイ。」

 研究室にはまだ何人かが残っている。博文と同じ

 くレポートを仕上げている者もいれば、次の発表

 資料に追われててんてこ舞いのやつもいる。博文

 は廊下を歩きながら、今日の夕飯の献立を考え

 る。今の時間なら、2割引きか3割引きのシールが

 貼られているはずだ。

  スーパーに寄ってから家に帰ってきた。玄関の

 扉を開けてから、明かりを点ける。今は何時だろ

 うかと思って、博文はスマホを見る。ホーム画面

 は8時という時刻に添えて、見慣れないメッセー

 ジを表示する。

 「お疲れ様です。何かトラブルでしょうか?6時か

 らシフトが入っているのですが。」

 一瞬思考が停止する。しかしすぐさまその遅れを

 取り返すようにして、同時に様々な考えが頭の中

 を駆け巡る。まずはスマホのカレンダーを見る。

 しかし、案の定そこには何も書かれていなかっ

 た。何か書いてあれば今朝の内に気づくし、リマ

 インドの通知も来るはずだ。続けてシフト表を見

 る。すると確かに自分の名前の欄に丸が書き込ま

 れている。博文は焦りから混乱した脳で原因を考

 える。それと同時に連絡してきた先輩に返信し、

 社員の一人にもメッセージを送信する。

 「お疲れ様です。大変申し訳ございませんでし

 た。今日は無いと思っていました。」

 そう、今日はバイトは無いと思っていたのだ。授

 業が6時まであるのだから、6時からのシフトを入

 れる訳がないはずなのだ。そう思って、過去に送

 ったシフト希望を探して、愕然とする。今日の日

 付に出られないと書かれていない。出勤できない

 ことが当然過ぎて見落としていたのだ。

  しかし、既に2時間以上の遅刻だ。5分や10分

 ならともかく、或いは30分であってもすぐさま出

 勤して、謝りもしただろうが、2時間も過ぎれ

 ば、勤務時間はあと半分。もはや今更行くことに

 何の意味があるのだろうかという気もする。そう

 思うと億劫で仕方がない。

  何とかして今から出勤しなくても済む方法はな

 いだろうかと思案する。「そうだ、今ここにいな

 いということにすれば良いんだ。」上手い嘘を吐

 くには真実を織り交ぜると良い。元々予定、つま

 り授業があったことは本当なのだから、別の予定

 があって、市内まで出掛けていたことにしようと

 思い至った。

  スマホで電車の運行表を検索する。市内にい

 て、今から駅に向かったとして、乗れるのは最速でも15分後の車両だろう。そこから家まで1時間はかかる。このあたりが現実的だろうと思う。

  先程の返信から間が空いて怪しまれないよう

 に、すぐにメッセージを送る。急いで向かってい

 るが、到着は22時前になるという内容だった。こ

 こで博文は急いで向かっている風を装ったが、具

 体的な手段は言わなかった。あれこれと付け加え

 るとボロが出るだろうし、本当に急いでいて端的

 な内容しか書く余裕がないように見せる為だ。す

 ると、「分かりました。今日は出勤しなくても大

 丈夫です。」という返事が来た。

  詳しい事情は聞かれた時に答えれば良い。それ

 にもし向こうで調べられたとしても、信憑性のあ

 る時間設定にはしてある。出勤を免れて、今日怒

 られることも避けられた。次に出勤した時に怒ら

 れるかもしれないが、その時はその時だ。

  一旦落ち着いたので、博文は買ってきた食材で

 夕飯を作る支度を始める。今日はもうご飯を食べ

 て、風呂に入って寝ようと心に決めた。

  翌日、今日は昼からシフトが入っている。取り

 敢えず着いたらすぐに謝ることにしようと考えな

 がら、自転車を漕ぐ。バイト先の居酒屋に着い

 て、裏口に回る。そして、意を決してドアを開け   

 る。

 「おはようございます。昨日はどうもすみません

 でした。」

 博文は出来うる限りの声量を出す。同時に体を

 180°前屈させて謝罪の意を表明する。

 「おはよう〜。ちょっとそのままおってや。」

 社員たちが博文の来たのを認めて、挨拶を返す。

 そのうちの一人がにやにやと笑いながら、そう言

 って奥へと消える。言われた通り暫くそのままで

 いると、突然背に何かが当たった。それは勢いよ

 く全身に広がり、僅かな温かさを皮膚に伝える。

 何が起きたのかを理解した頃には、床に飛沫が散

 り、辺りが水浸しになっていた。今しがたどこか

 へと向かった彼が戻って来てホースからお湯をか

 け始めたのだ。それを見て周囲の者たちも笑って

 いる。博文は屈辱を感じながらも、呵責を受ける

 ことは仕方がないだろうと考える。


「おい、大丈夫そ?」

晋作に起こされながら咳込んでお湯を吐き出す。全く状況が理解できない。

「ずっと寝とるな〜とは思っとったけど、今見たら沈んでいったけぇびっくりしたわ。」

なるほどそういうことか。いつの間にか眠っていたらしい。その挙げ句に溺れかけたと。

「わりぃ、助かった。ありがと。」

「びっくりした〜。大丈夫そ?」

「お湯飲んだくらいや。」

調子が外れて妙に振動する声で答える。しかし酷い夢を見た。本当に長い間眠っていたのだろう。手の平がふやけて皮膚が白くなっているし、外は西日が傾き始めている。

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