第11話

 靴をしまってから、受付を済ませる。アメニティやら設備やら諸々の説明を受けている間、背後からは談笑が聞こえてきていた。平日ということもあり、今日は人が少ない。今日はと言っても、他の日の様子を知る訳では無いが、休日や祝日ともなれば、多くの人が訪れることは想像に難くない。今この場にいるのは、私たち二人の他、この辺りの住民と思しき御婦人方だ。殆ど荷物を持たず、歓談に耽っていて、ここが地元住民の憩いの場になっていると見える。私に続いて受付を済ませた晋作がやって来た。

 だかでも他の客は見受けられず、静けさだけがそこに居た。そんな様子を見兼ねてか、窓の隙間から恐る恐る野鳥の声が入って来た。こんな冬場でも野鳥がいるのだなと耳を傾ける。生憎鳥については門外漢なので、声の主は断定し得ないし、当たりも付けられないが、鴉は論外にしても、鳩や雀のような野暮ったい鳥でないことくらいは分かる。

 幼い頃とは違って、公衆浴場に対する抵抗も随分と鈍ってきたが、それでもやはり、赤の他人と寄って集って風呂に入るのは気分の良いものでは無い。だから、今のように、世間の人々とはずれた時間を生きるというのも快適なものだ。他者との共有を嫌悪する個人的な性癖を抜きにしても、観光地の広い浴場を寡占できるというのは、得も言われぬ優越と満足とを与えてくれる。

 ふと、手を止める。「困った。」コートと肩に掛けていた鞄と上着を入れた所で、脱衣ロッカーー目の前にあるのは、陳腐なステンレスの棚ではなくて、木製の小綺麗なものだから、ロッカーと呼ぶには些か抵抗があるが、脱衣ロッカーより他名を知らないのだから致し方ないーが一杯になってしまった。真冬で厚着をしている上に、生来寒さには弱い質ときているから、脱いだ服が嵩張って仕方がない。

 他に客もいないのだから、不躾ではあるが、みぎか下か、もう一つのロッカーを使ってしまおうか、と一瞬間邪な思念が浮かんだ。しかし、それは泡沫のようにして、忽ち弾けた。悪の小なるを以て為す勿れ。真夜中の赤信号で立ち止まることと同じだ。日常の瑣末な場面でこそ、正しくあらねばならない。習慣が性格を形成する。一個人の内奥においても、バタフライ効果は看過し得ない。そう思って、何とか服を仕舞い込む。私がこうして齷齪としている間、元々薄着の晋作は何の苦労もなく、鼻歌交じりに呑気な調子である。気苦労が少なくて結構なことだ。

 いよいよ待望の温泉の扉を開ける。すると、脱衣所の冷気が床面に滑り込み、そこから持ち上げられた浴場の熱気が体を包み込む。脱衣所でほんの一分弱程いただけでも、かなり体が冷えていた。その状態で浴びたこの空気は非常に快いものであった。

 柔らかく湯気が立ち込める浴場には、先客の中年男性が一人居た。彼は既に大浴場で舟を漕いでいる。手桶でお湯を浴びてから体を洗う。日本人の骨髄に刷り込まれたマナーに従って、私たちは初めから露天風呂に向かった。冬は露天風呂と相場が決まっている。硝子戸を開けた途端、先程とは反対に冷気が私たちを襲う。

「寒っ。」

反射的に口にしたと同時に、湯船へと急ぐ。冷えた体に熱めのお湯が何とも心地良く、二人揃って思わず嘆息する。

「良いもんやね〜。」

「最高や。」

贅沢を言えば、雪の降る夜、竹格子に囲まれた露天風呂に浸かるというのが理想だが、それは未来の自分に託そう。

「この間、十五人くらいの団体客が来てさ。」

「おう。」

「その人らが帰るときに、自分がレジしたんやけど、最悪やったのが、個別でお願いします〜って言われて。」

哀れみと共に思わず笑いを零す。同じ飲食店アルバイトとして、このあとに予想される展開に同情したからだ。

「並んで待っちょった人も、全員レジの前に来てから財布だし始めたり、スマホ触り始めたりして、お前らもっと早く準備しとけやーって。」

最後の罵声だけは嗄れた重低音で言う。その時隠していた本音が漏れた分の歪だろう。

「しかもさ、全員レジで金額聞いてくるんよ。伝票渡してましたよね?どうして部屋で計算してこなかったんですか?って聞きたかった。」

続けて調子外れの声でおどける。

「あるあるやな〜。」

「もう、そういう時にかぎって後ろからさらに帰る人くるし、全部終わってから領収書くれますか?とか聞いてくるし、あ゛ー。」

「草。」

どこの店でも同じなのだなと思う。暫く話してゆったりしていると、次第に暑くなってきて、湯船から上がって半身浴に切り替える。こうすると、外の冷気が心地良い。しかし、すぐに寒さに堪えられなくなって再び湯船に浸かる。これを何度か繰り返している内に、流石に飽きてきて、中の風呂に移る。

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