第9話

「この近くに

 暫く行くとーこの暫くと言うのも、思っていた三倍近い距離で、それもただの地方都市で、ここに温泉があるのか疑わしい、住宅地が立ち並ぶ見慣れたような場所だったーこの辺りには不釣り合いな近代的で大きな建物が現れた。電波塔を携える大きな建物の陰にひっそりと、政府指定と銘打った旅館と庭園とが隠れて、こちらを覗いていた。近場にまで住宅地が侵入してきているのを見るにー晋作が誇らしげに語った人口分散の成功がきな臭くなるー観光地も肩身が狭く、虫の居所が悪いのだろうかとも思われた。

 しかし、川を渡る小路過ぎると、途端に空気が変わった。先に立ち塞がった大きな建物はかの花の壁よろしく、私たちを拒むかのようであったが、寧ろ漆塗りの器のように静謐な空間を守るための壁であったらしい。いよいよ目的地が近い。今でこそ、この接近は私の心と躍る相手として、手を取るに足り得るが、以前ならば、気分を害し、その手を払い除けていたはずだ。

 私は物心ついた頃より、風呂というものが嫌いだった。碌な思い出が無いからだ。幼い時分、家族旅行で道後温泉に行ったのだが、旅の疲れで機嫌を損ねた父に剣突を食らわされ、父に反発した私は風呂に入らなかった。そもそも公衆浴場とは何だ。何が悲しくて赤の他人に裸体を曝し、曝されなければならんのか。それだけでもくさくさしてくる。

 それに風呂は息苦しい。温められて運動量の増した水蒸気が空気へ飛び出し、室内を満たす。そんな空間へ入れば、高温で湿潤な空気が喉を満たし、肺を満たす。じわじわと溺れているような気分になる。空気が薄い高地で激しく運動した時のような息苦しさだ。その苦しさから逃れようと外に出ると、視界が白んでふらつくのだ。ただ疲労が募るばかりで、疲労回復効果など迷信だとさえ思っている。それが嫌で家でも風呂には五分も入らん。あんな空間で寛いでいては、魂を洗濯するどころか、掬い取られかねん。

 風呂は日本人の魂だと思っている輩は多いだろうが、そんな全体主義では回収し切れない物もあるのだ。昨今の世は少数者が声を荒らげ、自らの権利を主張している。その勢いは、あまつさえ常識を塗り替えようとせんばかりに、他人に配慮を強制する程に居丈高だが、私はそんな非常識な無頼とは違うのだ。ただ粛々と自らの生活圏を安寧に営む事ができれば十分なのであって、対外侵攻などに興味は無いし、ファシスト共のことは冷笑していたいのだ。

 しかし不思議なもので、近年はそんな嫌悪感と拮抗し得る程には温泉旅行への機運が高まり、風呂嫌いの私も温泉に憧れを抱くようになった。それには、私の趣味が多分に影響している。

 事の始まりは高校三年の春。大学に合格してからは、暇を持て余す日々だったのだが、大学は国の最高学府なのだから、どれほどの猛者がいるものかと慄いた私にはーこれは実際には過大評価だったーそやつらと渡り合う為の教養が必要だった。電子と陽子、それから中性子の砂漠で、運動方程式に規定された私にとって文学は未知の天涯であった。小説など、小学生の頃、朝読の時間と読書感想文とが私に強制して読ませた数冊以外には、教科書にあるものしか知らなかった。『ごんぎつね』にせよ『こゝろ』にせよ、さほど面白い物でもなく、授業では正しいのがどれかと悩んでいれば、どれも不正解というのがオチだった。

 大学での百選を危うからぬものとするには、まず敵を知る必要があるだろうと思い、伏魔殿ー単に近所の本屋であるが、私には魔窟以外の何物でも無かったーに赴いた。初めて手にした小説は夏目漱石の『こゝろ』だった。結果、つまらないのは小説ではなく授業だった。或いは、一部分だけを切り取った教科書が興を冷ますのであって、授業はその再生産なのかもしれん。

 そこからは小説があらゆる時間に侵入し、世界を組み上げていった。いわば、無機質だった砂漠に、ダカールとトゥールーズを結ぶ航空網が敷かれ、夜間も郵便飛行が飛び交ったのであった。

 その世界では名もなき猫が喋ったし、悪魔に騙された科学者は永遠に女性的なるものによって救われた。そんな彼らの多くがー海外は文化が異なるためかそうでも無かったが、少なくとも日本はー示し合わせたかのように、夏目漱石や梶井基次郎、川端康成らが皆温泉へと向かった。彼らの場合湯治であって観光とは幾分異なるのだろうが、作中でも温泉が出てくるのだ。こう何度も見かけるのでは、好奇心が刺激されるというもの、単純接触効果というやつだ。なんそ。」

 晋作は、この近くに運動公園があって、陸上部員として世話になった、近隣住民の健康増進に役立っているという趣旨の話をした。

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