第7話

 「なるほど、中原中也記念館か。」どうやらこの近くにあるらしい。ここは彼に縁のある土地なのだろうか。中原中也は確か詩人だったと記憶しているが、彼の作品の一つはおろか、代表作すらも知らぬ始末だ。不確かな記憶が微睡みから目を覚まし、「所詮私は己の知る事しか知らぬのだ」と居直った所で、山口県は人口の分散に成功した都市なのだという趣旨の話をしていた晋作が、私に遅れること数分にして、漸く件の記念館の存在を認めたようだった。

「中原中也記念館、なかはらなかや?なかはらちゅうや?がある。」

「なかはらちゅうやな、行ってみるか?」

「いや別に。」

「だよな。」

「てか、小説家だったっけ?」

「いや、詩人、やったはず。作品は知らんけどな。」

 私とて、酔っ払っては太宰治の家の前に赴き、恫喝して怯えさせていたなどというネット上で有名な逸話程度しか知らぬのだから、自らを棚に上げて非難する権利は無いのだが、仮にも将来国語の教師になるー私はならないが皆等しく文学を専攻しているー学生が教科書に載っているような著名な文学者についての知識が無いとは何と嘆かわしい事か。

 ただでさえ我々文系ーこの文理の区分自体如何かと思われるがーは数理から逃げたのだと揶揄されるのだから、せめて文学の面でくらいは博覧強記であって然るべきではないだろうか。

 つい先日も、我が同輩諸氏の数理科目に対する忌避と無頓着とには辟易したのだった。

 蝶が羽ばたけば、遥か遠くの海で台風が発生する。風が吹けば桶屋が儲かる。この世の因果は銘々が無関係には存在し得ず、全体として見事な統一を為している。高々六日でこれを創り上げた神は、さぞ得意であったろう。しかし、私は無神論者だから、ただ世界の枢機の見事な均衡に嘆息するのみである。だから私は物理が大好きだ。一時は、この世の真理を究明せんとする学問に傾倒し、陶酔して、大学でも真理の探究に励もうと考えていたが、生憎浮浪者の私は、受験戦争の真っ只中にあって、別の事に興味が移ってしまった。自ら大学で進歩の一端を担わずとも、現今の便利な世の中では、先蹤の偉大なる功績や、後進の弛まぬ努力の成果を知る事ができる。学問領域が専門化し複雑になった今では、二足の草鞋は困難にせよ、一つの趣味として、人間として生まれた天賦の権利に浴することができる。

 しかし、この山口なぞは、真理の探究などどこ吹く風と、桶屋の利益にもならぬ隙間風を吹かしている。私は、物理の面白さを説き、人としての権利を果たすよう勧めたのだったが、数字は難しくて一向に分からないの一点張りである。山口だけではない。国語科の同輩は皆示し合わせたように、異口同音の有様である。国立大学の学生ですらこの体たらくかと失望した。まして世の中はどれ程の醜態かとわ、想像するだけでも冷や汗が出る。

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