第6話

 「そこのホテルすごい有名な所なんよ。」

得意げに示された方向を見ると、そこには確かに大きな建物があった。しかし、

「嘘つけ、ローカル出すな。」

それは初めて見るホテルであった。こいつはー誰しも少なからずそういう傾向はあるのだろうが、こいつは特にその程度が激しいー山口県が世界の全てだと、いわば山口県を中心に置いた天動説の支持者である。山口県にあるものは全国にあって、日本中が知っている常識だと思っている。

「いやマジで、だって歴代の総理大臣皆ここに泊まってるもん。」

皆という部分は胡乱だが、幼児の常套句である「みんな持ってる」「みんなしてる」というのと同じ具合なのだろう。少なくとも一人以上は実際に宿泊したと考えてやっても良さそうだ。

 しかし、率直に言ってこのホテルは総理大臣が宿泊するような立派なものには見えない。比較対象に、私の知りうる中で高いホテルを挙げてみると、地元神戸には全国的にも名のあるホテルが建っている。その出で立ちや面構えもさることながら、その周辺には高級車が行き交い、そこが周囲とは一線を画すのだということを明らかにしている。

 その記憶と、今目の前にある景色とを重ね合わせてみると、随分歪に相違する部分が浮き彫りになる。晋作の言うように建物は大きいが、古ぼけた印象を受ける。しかし、通常老舗旅館と言うのであって、これは旅館ではなくホテルなのだから、頭に被せてやるには若干の違和感があるが、これはこれで老舗ホテルの趣があるとも言えるのだろうか。それにこのホテルはポーチを持っている。ポーチがあるホテルは十分格式が高い。

「じゃけぇ日本で一番総理大臣を輩出してるのは山口県なんよ。そもそも山口県が無かったら明治維新で近代化できてないし、イギリスに勝ったのも山口だけじゃけぇ。日本の首都になる日も近い。」

「数十年後残存しとる都道府県に山口は入ってねーぞ?」

「ならその統計が間違ってる。首都は無くならんけぇ。」

 なんの根拠も無い弁論で、既に首都の座を簒奪したつもりである。なおも晋作は続ける。既に幾度も聞かされてきた内容だが、高揚した酔人のように、耄碌した老人のように、同じような事柄を並べ立てる。こうなると止まることは無く、こいつに組み込まれたアルゴリズムの進行を待つ間、反駁することが愚かしい行いであることを私は学習したのだ。

 晋作は歴代の首相を列挙していく。私と違って日本史を学んだこいつは、藤原や源平、徳川等々、有史以来の著名な人物を諳んじることができるほどその分野に明るく、殊首相に関してはある種の性癖がその素顔を顕にする。

「もうお前が総理大臣になれば?」

「ん?」

私は適当なオブリガートを入れてやったつもりだったのだが、忽ち静寂へと調子を変えてしまった。

「その手があったか。」

珍しく神妙な面持ちで口角を上げると、

「確かに、竹下登も元々中学校の英語教師よな。」

「いや知らんけど。」

晋作は天啓を得たと見えて、将来設計を改め始める。

 ここまでの会話は、食事は、人々は、あらゆるものがこの地にあって、この地の統一を成していた。恒常性は異物の侵入を認めず、また自らの部分の欠落をも許容しなかった。ただ緩慢な変化のみが、プルタルコスの説いた船の完成を担ったのだった。にも関わらず、何たることか、今私たちが通り過ぎようとしているここには、明らかに調和を乱す、彩度の高い色使いがあるではないか。

 わざとらしい煌めきと高級感のある文字が、扇情的な服装の女性たちを彩る。

「おぉ。」

「ん?」

「前に博多に行った時も思ったけど、どこにでもあるな、こういう店は。」

「キャバクラか、寄ってく?」

「アホか。」

しかしよく考えてみれば、一目見た時は唐突な変化を本能的に拒絶したが、風俗店もこの地の部品としてある種の正当性を有しているのかもしれない。『坊っちゃん』では、赤シャツが粉をかけていた芸者のいる遊郭が、道後温泉の近くだった。それに温泉にまつわる言葉の多くが隠語になっているようだから、昔から温泉と風俗、いや性風俗ー文化人類学を専攻している友人が言うには、人間の生活様式や文化的なものを指して風俗と言おうにも、性的な意味合いが想起されて迷惑至極らしい。風俗は性風俗の略称なのだが、これでは寧ろ本体が失われてしまっているではないか。情欲が絡むとそれを直隠しにしようとして、それを脱臭した無味乾燥な言葉を略称とする為に、性的な意味が逆輸入されてしまうのだろう。確かにいい迷惑だ。ーとは関係が深いのだろう。

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