第5話

 こいつがまだゆったりと食べている様を横目に見ながら、私は幼稚園や小学校でのことを思い出していた。幼い私は、晋作が言う所の味わう食べ方をしていた。集団の中で一人また一人と目の前に置かれた食膳を平らげていき、後ろから得体の知れない大きな闇が迫って来るようなあの感覚。食べ残しをする訳にはいかなかった。大して満腹という訳でも無ければ、それは私の倫理や道徳のようなものに反した。何より周囲の空気や大人たちがそれを許容しなかったのだ。

 結果として一人取り残されたまま、教室の椅子と机が後ろへと運ばれて、段々と私を囲う一つの大きな塊ーそれは恰も牢屋ではないかと感じられたーを形成し、刑期を終えた子どもたちが、各々与えられた仕事、学校の掃除へと精を出しに行った。ただ私一人だけがいつまでも囲いの中にいて、大人たちの苛立つ視線や友だちの憐れみを一身に受けた時のあの惨めさ、目元からは涙が滲み出て頬へと流れようとし、喉は嗚咽しようとするのを懸命に押さえつけながら、最早味のしなくなった固形を口に含み、すり潰し、飲み込んでいく。

 集団はその中で後れを取る者を、和を乱す悪として槍玉に挙げ、悪しざまに押しのけようとする。それは、学校や教育だけが有する特異な性質ではなく、社会が、およそ生物と定義されるものが劫初より持ち続けてきた本能なのであり、その冷酷に恭順する姿勢を涵養することも、一つの教育のあり方なのだと思う。しかし、今ここは学校ではなく、大学生は社会から切断され、モラトリアムを信奉する集団なのだから、各自の裁量で食べる早さを決めるが良い。

 「ごちそう様。」

晋作がそう告げるまでの間、無聊を慰める為余興として天蓋の中で眠っていた憐憫を、暗澹を一笑に付した。そうして我々は席を立った。

 結局食欲の抗い難い暴力によって振り出しへと突き戻された私たちは、三度目の正直になるように祈りながら、もう何年も通い続けた通学路を歩むように、目的地を目指し始めた。「つまり私は、晋作に案内を任せた時点で、丁半の賭けに負けていたのだな。」と自らを納得させる。

 程なくして私の目に武家屋敷のような壁が写る。外敵を寄せ付けまいとする漆喰の壁がぐるりと囲い込み、その内側は冬真っ只中にも関わらず、季節感を放棄した青々と繁る常緑樹が屹立し、、その最奥にあるであろう本殿の姿を隠している。「これも旅館なのだろうか。」中の様子を窺ってみようとしたが、冬の日差しを濾した木漏れ日と、その光と対照的な葉の陰とのモノトーンのギャバジンのヴェールが、向かいの通りへと左に直角に折れるまで続いた。この中にあるものは最後まで警戒を解くことなく、通行人に新しい刺激を与えることによって自身へ向けられた意識を免れた。

 壁が途切れた所に手湯があったのだ。温泉地では無料の足湯が相場だと思い込んでいたがため、初めて目の当たりにする手湯の存在に好奇心を擽られた。これを読んでいる者の中には、手湯なんぞはそこいらにあって特筆すべきものでもないと思う者もあるかもしれない。しかし、我々はこれが初めての邂逅であったのだ。

「何あれ?」

「手湯って書いてある。足湯じゃないんだ。」

「やってみよーや。」

「面白そう。」

そう言って初めて見るそれに触れようと近づいたのだが、私たちはある異変に気が付いた。当然そこにあるはずものものが無いのだ。

「ん?これお湯は?」

「何処かから出すんかな。」

そう言いながら晋作は、公園の水飲み場のような、石造りの立体を物色する。

 こういうものは常にお湯が流れていることが常套だと思ったのだ。都度出したり止めたりしていては手間も費用もかかる。その上衛生観念に鑑みても放流させておくことが好ましいだろう。そう思っていると、手前に一枚の立札を発見した。その札曰く現在は故障中でお湯は止まっているとのことだ。

「これ見て。」

「・・・まじか。」

 何と間が悪いのだろうか。私の旅は、よくこの種の不運を連れ立って来る。訪れた店が閉まっていたり、観光地が改修中で網に覆われていたりするのだ。今回もそういう巡り合わせらしい。些かの落胆はあるが、今日の目的である温存の価値が高まったのだから、これも必要な過程だったのだと得心するより他無い。一抹の寂寥を慰藉しようとする私とは対照に、晋作はその双眸を輝かせていた。「あぁ、これは面倒なことになる。」と直感する。

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