第4話

──キーンコーン……。


放課後のチャイムが鳴り、教室の真面目な空気が一気にほどけた。


椅子を引く音が連鎖し、机の脚が床を擦る軽い悲鳴があちこちで上がる。


誰かが「部活見に行こーぜ」と叫び、別の誰かが「駅前寄ってく?」と笑っていた。


入学初日特有の、まだ互いの距離感が定まっていないざわめきが、初々しくも教室を満たしていた。


朝影は椅子からゆっくりと立ち上がった。


(……終わったぁ)


何事もなく学校が終わり、緊張で凝り固まった体をほぐすように伸びをする。


しかし彼の頭の片隅に、神代のあの言葉。


『安心して。──今は、まだ』


ちらりと、神代の席を見る。


すでに神代の姿はなく、チャイムがなったあとすぐに教室から出て行った。


「よーくん」


隣からいつも通りの声がして、横に振り向く。


千陽がひらひらと手を振った。


「一緒に帰ろ〜」


「ああ」


朝影は頷く。


本音を言えば、今日は一人になりたくなかった。


いや、今までの朝影だったなら、巻き込まれ病に備えて、千陽とは別に1人で帰っただろう。


だが、今回のそれは経験してきた感覚とナニカが違う。


過去を振り返ってみれば、ある意味、巻き込まれ病の出来事は現実的事件として収まっていた。


しかし、この感覚は従来のそれとは全く異なる気がしていた。


……到底言葉では説明などできないが。


「なぁなぁ朝影くん」


前の席の男子が、遠慮がちに声をかけてくる。


(名前は確か……清水きよみずだったか?)


運動がが得意そうな、爽やかなイケメンだった。


入学初日はこういう遠慮がちな“探り”が飛んでくるのが普通なのだろう。


「部活、何入る? 夢ノヶ丘って部活強いの多じゃん」


「……いや、まだ決めてない」


(結局部活に入ることはないだろうなぁ)


「そっかー。じゃ、よかったら見学行かね? 俺、中学はサッカー部してて、高校でもサッカーしようと思ってるんだ」


朝影は返事に困って視線を泳がせる。


断るのが苦手というわけではない。


そんな空気を察したのか、千陽がふわりと割って入った。


「ごめんね〜。今日は入学初日だし、よーくん疲れてるから。見学はまた今度にしてほしいな?」


ほんわか美少女の笑顔。


だか圧がすごい。


断りにくさを、相手に気持ちよく飲ませる、千陽の得意技だった。


「お、おう。そっか。じゃまたな!」


男子はあっさり退き、別のグループへ合流していった。


「……助かった」


「でしょ〜」


千陽は軽く肩をすくめる。


けれど、その目は笑っていてもやはり落ち着きがない。


たびたび教室全体を、さりげなく、何かを警戒するように視線を巡らせている。


(……遥、今日ずっと変だな)


はたから見れば朝影だってそうだ。


……そう思いかけた瞬間、朝影の視界の端で、ふっと黒いものが揺れた。


窓際。


カーテンの影。


(……今、動いた?)


目を向けると、そこには何もない。


ただのカーテン。


窓は開いておらず、夕方の春風すら入っていない。


朝影は小さく息を吐いて、荷物を手早くまとめた。


「行くか」


「うん」


二人は教室を出る。


廊下に出た瞬間、快晴この上ないのに、湿ったような空気が肌にまとわりついた。


校舎の中は涼しいはずなのに、そこだけ温度が違うように感じる。


(……まただ)


朝影は無意識に胸元を押さえた。


“ズレ”が、薄い膜みたいに周囲へ広がっている。


階段を下り、昇降口へ向かう途中。


すれ違う生徒の声が、一拍遅れて耳に入った。


「……え?」


思わず足が止まりかける。


音が遅れる。


人の動きが、僅かに引き伸ばされる。


まるで映像のフレームがずれて、現実が後追いで追いつくような感覚だ。


「よーくん?」


千陽が振り返る。


その瞬間の表情は、明らかにナニカを“知っている”側の顔だった。


すぐにいつもの笑顔へ戻るが、今度こそ朝影は見逃さなかった。


「……今、変じゃなかったか?」


「……変?」


一泊置いて、千陽はとぼけるように首を傾げる。


だが、胸元の純白のネックレスを、指が無意識に触れている。


(……)


昇降口で靴を履き替える。


外へ出ると、夕方の光が校庭を斜めに切っていた。


上級生が精を出している部活の掛け声やボールの弾む音、吹奏楽の綺麗な旋律。


どれも“普通”の放課後のはずだ。


なのに。


校門へ向かう道の途中、朝影は再び足を止めた。


校舎の影――中庭へ続く通路の奥。


そこに、黒い染みのようなものが滲んでいる。


影、というより。


“影の形をしたナニカ”。


見ようとした途端、染みがすっと縮む。


まるでこちらの視線を嗤うように。


「……っ」


朝影の背筋が粟立つ。


「どうしたの?」


千陽が、いつもより低い声で聞いた。


「……今、あそこに」


朝影が指を向けようとした瞬間、その黒いものは消えた。


通路の奥には誰もいない。


影はただの影としてそこにある。


「……気のせい、だよな」


自分に言い聞かせる。


だが千陽は、ポーカーフェイスを維持できていおらず、気のせいで済ませる顔をしていない。


(反応してるっ)


千陽は胸元のネックレスから熱を感じていた。


ネックレスが温度を上げる時、ほとんどの場合は“近い”。


ただし、まだ“出て”はいない。


出たらもっと露骨に反応する。


「今日は寄り道しないで帰ろ」


千陽の言葉に、


「……分かった」


朝影は頷き、二人は校門を出た。


住宅街へ続く道。


夕焼けの色。


通学路に並ぶ電柱の影。


公園のブランコのきしむ音。


(……落ち着け)


朝影は呼吸を整える。


だが、次の瞬間。


遠くで、低い唸り声のような音がした。


「……今、聞こえた?」


朝影が小さく言う。


「え?」


千陽は立ち止まり、耳を澄ませる。


確かに聞こえる。


人の声でも、車のエンジンでもない。


地面の下から響くような、曖昧で不快な音。


千陽は朝影に気づかれないように、ほんの少しだけ立ち位置を変えた。


朝影の半歩前、道路側に彼女は動く。


守るための癖。


そして――いざという時、すぐ動けるようにするための準備。


朝影の袖をそっと掴んだ、離れないように。


「急ご?」


歩き出した瞬間、電柱の影が不自然に伸びた。


夕方の影の伸び方とは違う。


角度では説明できない。影が“意思”を持っている。


「……っ」


朝影の視界が、ぐにゃりと歪む。


影の中に、何かの輪郭が浮かんだ。


手足のようなもの。


口のような裂け目。


そして――眼。


(……っ)


朝影は反射的に瞬きをする。


もう一度見ようとした時には、影はただの影に戻っていた。


「……今の、なんだよ」


声が震えないようにするので精一杯だった。


千陽は何も答えない。


答えられない。


答えた瞬間、日常が壊れる。


(まだ、壊さない)


千陽は胸元のネックレスを指で押さえた。


熱は増しているが、この程度ならまだ、誤魔化せる。


「よーくん」


千陽はいつもより柔らかく言った。


「変なもの見ても、気にしなくていいからね〜」


「……それ無理だろ」


朝影は苦笑する。


その笑いは、甘酸っぱさとは無縁だった。


生理的な怖さを、笑いで誤魔化すしかない。


千陽も一瞬だけ困った顔をして、それから笑った。


「うん、無理だね〜」


笑いながら、千陽は自分の胸の奥が痛むのを感じる。


(ごめんね)


気づいてほしくない。


でも、気づかれてしまう。


言うなれば今までの朝影の巻き込まれは、チュートリアルに過ぎない。


そして巻き込まれる度に、少しずつ本番に近づく……それが怖かった。


家の近くまで来ると、唸り声は薄れ、影の異常も消えた。


空気が、元に戻る。


戻ったように見える。


朝影は息を吐いた。


「……何もなかった、な」


「……うん。今日は、ね」


千陽の返事に、朝影は小さく引っかかった。


“今日は”。


つまり、明日は違うのか。


「遥、さ」


問いかけようとして、言葉が出ない。


何を聞けばいい? どう聞けばいい?


何も聞けず、そのまま別れ道に着く。


「じゃあ、また明日」


「……ああ」


朝影が家の門をくぐるのを見届けるまで、千陽はその場を動かなかった。


そして、朝影の背中が見えなくなった瞬間、千陽の表情からふわふわした笑みが消えた。


空気が冷える。


夕方の匂いの中に、嫌な臭いが混じっている。


(……完全に始まった)


“あいつら”の警告だ。


曖昧な世界が、朝影夜月を中心に揺れている。


千陽は胸元のネックレスをそっと握った。


純白の宝石が、微かに光を含んだ気がする。


「……絶対に守り切る」


誰にともなく呟く。


自分に言い聞かせるように。


そして千陽は、誰もいない道の角を曲がった。


歩き出した足取りは、さっきまでと違う。


普段の女子高生の歩幅ではない。


迷いのない、目的地へ向かう歩幅。


その背中に、夕陽が長い影を落とす。


影は、今はまだ――ただの影だった。

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『女神達の交流会』巻き込まれハーレムルート(仮題) アリズムン @kuuha

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