ベランダから


 ユメタさんが、初めてとなる取引先との打ち合わせを終えた、その帰りのこと。


 相手先の会社を出たのは夜の7時過ぎごろだった。

 最寄り駅までは一本道を歩いて十数分程度と思われる道のりになる。行きは打ち合わせの時間に間に合わせるためバスを使ったが、帰りは急ぐ理由も思いつかなかったので、今後のために実際どのくらいかかるか知っておこうと徒歩を選んだ。


 歩き始めて間もなくして、どこかからぽんぽんと音が聞こえてきた。

 打ち上げ花火の音だと、ユメタさんはすぐに察した。

 取引先の人から、今日は近くを流れる川べりで大規模な花火大会が行われると聞いていたからだ。


 時間的にはまだ始まったばかりだろうし、会場近くの駅も一つ隣りのはずだから利用する駅自体には影響はなさそうだ。しかし電車は混むかもしれない。

 ユメタさんはバスに乗って早めに帰ることを選ばなかったのをのを少し悔やみながら、急ぎ足で行くことにした。


 花火の音はユメタさんが歩いている歩道沿いの建物の向こう側から聞こえてくる。

 道の向かい側の高層マンションを見上げると、5、6階あたりから上のバルコニーにちらちらと人影がうかがえた。あの高さからなら花火が眺められるのだろう。


 どうせならここからも見られればいいのに、とユメタさんは思った。

 しかし歩道からではそれは絶望的だった。建物の建っていない、開けているところでもあれば別かもしれないが、道のりももう半分もないし、駅に近づくほど高い建物は増えていく一方だ。


 そんなことをつらつら考えながら歩いていたユメタさんの目に、ふと目に入ったものがあった。

 それはまっすぐな道のずっと前方、向かい側の道沿いに建っている2階建てのアパートだった。


 6階建てのテナントビルと、大きなマンションとに挟まれたその古い木造アパートは、遠目からでもなぜか妙に目についた。


 その理由のひとつは、「暗い」からだ。

 周りの建物が備え付けられた照明や窓からの光で明るいせいもあるが、アパート自体が灯りに乏しく全体的に暗いのだ。他との高さの差もあって、唐突にそこだけ暗い谷間を作り出していた。


 目を引いた理由はもうひとつあった。

 道路側に面した各部屋の狭いベランダのほとんどから、人が顔を出していたのだ。

 しかも皆、背後の部屋の明かりを消して、同じ方を向いていた。アパートの正面、道路を挟んで向かい側を。

 つまりこちら側、花火が上がっているはずの方向だ。


 見ているのか? 花火を?


 だとするとあの真向いは、さえぎる建物もなく開けているということになる。

 そしてもしあんな低いアパートから見えるというなら、自分の歩いているところからも花火が見える可能性は高い。

 そう思ったユメタさんはわずかに期待した……が。


 どこまで行っても建物が途切れることはなく、それどころか絶望的に大きな高層マンションが現れて、しばらくユメタさんが行く歩道沿いを占拠した。

 当の木造アパートの真向かいは、そのマンションのど真ん中だった。

 もちろん花火など見えようもない。思わずユメタさんは「見えねーじゃんか」と悪態をついた。

 そして怪訝に思った。


 じゃあそれなら。

 アパートの住人たちは何を見ているんだ?


 見回してもマンションには向かいの住人が一斉に眺めるほどのものは見つからない。

 そしてあらためてアパート側へ視線を向けた。


 闇に溶け込んだようなアパートを背景に、ベランダの窓から顔を覗かせる住人たちは全員、やはり同じ方向を見ていた。


 ユメタさんを。


 遠目から見た時には正面を向いていた顔を一斉にこちらに向け、じっと見降ろしていた。

 アパート全体が暗くて判然としない中に、それぞれの目だけがやけにはっきりと見えた。


 え、まじ?


 気のせいかと思いたかったが、どう見直しても確かに住人たちの視線は悉くユメタさんをとらえ、通り過ぎる間、いや通り過ぎてもずっと目で追ってきた。


 怯みつつもユメタさんも視線を外せなかった。外す方が怖かった。

 彼らの顔は無表情にも、笑っているようにも見えたという。


 ユメタさんはアパートからだいぶ離れたところでようやく顔を前に向き直して視線を外すと、それからは一度も振り返ることなくよりいっそう足早に駅へ急いだ。

 乗り込んだ電車は案の定混んでいたが、それがむしろユメタさんをほっとさせた。



 その後、ユメタさんはその取引先には何度もうかがったが、昼間でも徒歩で行くことは二度としなかった。

 そしてどういうわけか、バスやタクシーの車窓からはそのアパートを見つけられたことがないという。


「でも、これは勘なんですが、花火大会の日に通ったらまた見てしまう気がするんです。理由はわかりませんが、やはりあの日だからあの住人たちはああしていたんだと思うので。幸いあれ以来花火大会と重なったことは一度もないんですが」

 そう言うユメタさんに「もし重なったら?」と私がたずねると

「まあ仕事ですからね……」

 と、大口のお得意先様との関係と、正体のしれない不気味さを天秤にかけて、彼はそう答えた。

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虚話異談 殻艸(殻頭) @karabe_exuvias

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