球
前の職場で同じ部署だった、サラカワさんから聞いた話。
ある夜、サラカワさんが仕事帰りの道でのこと。
いつも通る、自宅近くの高架下の道沿いのフェンスに、ゴムボールのようなものが一つ、挟まっているのに気付いた。
遠目には白っぽい、柔らかそうな球で、大きさ的にも軟式テニスのボールを思わせた。それがフェンスの網目にギュッと押し込められていたのだ。
それだけのことだったし、前からあったかどうかもわからない。
ただ妙にその時目について、しかし何ということも思わずに通り過ぎた。
翌朝会社に向かう時には、その球はなくなっていた。
元の持ち主か、別の誰かが持っていったのか。それもやっぱりそれだけのことなので、サラカワさんは特に何も思わなかった。
しかしその夜の帰りにそこを通ると、また球がフェンスに挟まっていた。おそらく前と同じ球のようだった。
それではじめて「おや?」と思ったのだという。
その日から毎日。
そのフェンスに、夜には球があって、翌朝にはない、という状態が続いた。
毎回同じ場所かまではわからないが、だいたい同じあたりにいつも押し込められていた。
いったいなぜ?
それが10日を越えて、サラカワさんはさすがに気になってきた。
その間、サラカワさんが球を見た最も早い時間は午後8時前。遅くは午前0時を回った時にもあった。
一方、休日昼間に高架下を通った時も球は見当たらなかったから、おそらく日中の間はずっと持ち去られているのだろう。
毎朝ボールを持っていっては、夜には元の場所に戻している理由や事情を、サラカワさんは思いつかなかった。仮に遊戯か運動に使われているとして、持って帰るのが面倒でフェンスに押し込めているのだとしたら、近くで使われているべきだが、高架下でそれらしい人物を見かけたことはない。
こうしてサラカワさんの頭の片隅に小さな好奇心と気がかり生んだまま、さらにまた何日も球のある夜と無い朝を繰り返した、ある日の夜。
サラカワさんが少し飲んだ帰りにそこを通るとやはり、もはや当たり前のように球がフェンスに挟まっていた。
翌朝になれば、やはり当たり前のようにないのだろう。いまだ謎の理由によって。
改めてそう考えると、ちょっと癪に障った。
そうして、ほろ酔いのサラカワさんの中に、ほんの少しのいたずら心が芽生えた。
引っこ抜いてやろう。
そう思って、球に近寄った。
持って帰ろうとか、隠そうとかまでは考えていないなかった。
ただほんのちょっと、そうと分かる程度に違う場所にねじ込んでやったら、この球を毎日抜いては戻し、抜いては戻ししている「犯人」がどう思うだろうかと、意地悪なことを考えただけだった。
立ち止まったのも、近くで球をまじまじと見たのも、この時が初めてだった。
間近で見ると、軟式テニスのボールにしては少し大きい気がした。また、網目へのねじ込まれ具合を見ると相当柔らかそうだった。色味も、思っていたより少し赤みがかかっていた。
なんだか妙な、なまめかしさも感じる。
いったい何のボールなんだろうか。
そんなことを思いながら、サラカワさんはおもむろに球をつかんだ――その瞬間。
「うわっ」
予想外の感触に驚いて、反射的に手を離した。
その感触は、ゴムや人工物のそれではなかった。
ざらついていながら、しっとりもしていて、しかもすこし温かい。
その手触りはまるきり。
人の肌のようだったのだ。
つかんだ時に指が沈み込む感触も、他人や自分の二の腕なんかをつまんだ時を思い起こさせる柔らかさだった。
正直、気色が悪かった。
そうして、手を引っ込めて困惑しているサラカワさんの目の前で。
もぞりと球が動いた。
悶えるように蠕動運動をはじめ、やがてするりと網目を抜けてフェンスの向こう側へと落ちた。
ぺたり。
弾むことなく地面につぶれた状態で数秒とどまっていたが、急に形を戻したかと思うと、結構な速さで街灯の明かりの届かない、高架下の奥の闇の中に逃げていった。
その動きは転がるとも這うとも違う、独特の運動をしていたという。
サラカワさんは呆然として、その様子をただ見届けることしかできなかった。
それから球がどうなったかといえば。
次の夜にも何事もなかったかのように同じ場所にあったのだった。
そして今もなお、フェンスに挟まり続けているという。
サラカワさんは、もう触ったり近寄ったりすることはおろか、球のこと自体を気にしないようにした。
そうして毎夜視界の隅にとらえる球を、日常の光景として帰宅している。
「でも最近、変化があったんです」
サラカワさんは感情の読めない表情で言い添えた。
「2つになっているんです」
さらにもう1つ、同じような球が、近くに挟まるようになったという。
「そのうちもっと増えるかもしれませんね。ありゃなんなんでしょうね?」
と言いつつ、私もサラカワさんも答えを持たないので、すぐに別の話題に移った。
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