マミーマミー
これは私自身の話になる。
しかしながらこれを「実話」や「本当にあったこと」として語っていいものか、判断に迷う。
なぜならそれは、たしかに幼いころの記憶にあることではあるけれど、どこか曖昧模糊としていて、事実であったのか心許ない。実際は夢で見たことを現実と混同している可能性も十二分にあった。
そもそも、その時の記憶は前後の出来事の記憶とも、写真などの客観的な記録とも、整合性に欠けていたし、周りからされる話とも矛盾していた。
だから、そういう「お話」があるという程度に受けてめて聞いてほしい。
だけど私の記憶に刻み込まれている出来事であり、確かに「あった」という実感がある。
その時私は小学校3年生だった。
その出来事のすぐ後に小3の秋の遠足の記憶があるから、それは間違いないと思う。
そのころしばらく、父が家にいなかった。
「仕事で遠くに行っている」と聞いていたので、単身赴任か何かだったのだと思う。たぶん。
だからその間、一人っ子の私は母と二人きりで家で暮らしていた。
そのころの母の印象は「不機嫌」だった。
父がいないせいで不機嫌なのか、逆に不機嫌となる理由のせいで父親だけが遠くへ行っているのか。なんとなく後者なのではないかと、子供の自分は考えていた。
もうひとつ印象に残っているのが、その間のある時期、母の服装が派手になったことだった。
毎日よそ行きのような恰好をして、化粧の匂いをさせていた。そうして実際よく出かけていた。
私を連れて出かけることもあったが、たいていは彼女だけでどこかへ出かけていた。そういう日は、作り置きされた食事を一人で食べていたことをよく覚えている。
そんな時期のある日。その日も出かけていた母から電話があった。
平日昼間の、私が学校に行っている時間だったので、留守番電話に残されていたそのメッセージは、たしかに母の声、母の口調だったが、妙に枯れていて、普段怒っている時にも聞いたことがない神経質さを帯びた早口で、嫌な感じだった。
留守電の内容は「病院に行ってくる。帰るのは明日になる」とだけ。あとは戸締りや食事についてのメッセージのみだった。
食事や明日の準備はしっかりなされていた。出先で不慮の事故に遭ったり病気になったりしたわけではなく、すべて準備してから病院に行ったということになる。でも前日にもその朝にも、そんな話はされていない。急にこの日に行かなければならなくなったということなのだろうか。
夜一人で食事をすることも、母が帰ってくるのが遅くになることも幾度かあったが、帰ってこないというのは初めてのことだった。行き先が病院ということもあって、これまでにない心細さを覚えながら一人で夜を過ごした。
母が帰ってきたのは、翌日の夜遅くになってからだった。
夜も更けて、もしかしたら今日も帰ってこないのではないかと不安になっていると、カギを回してドアを開く音がしたので急いで玄関に向かった。
入ってきた姿を見て、私はたじろいだ。
初めて見る白いゆったりとしたワンピースを着た母が、どこかぎくしゃくとした動きで靴を脱ぎながら入ってくる。いつも出掛ける時に持っているバッグさえ持たず、手ぶらだった。
しかしそんなことは些細なことだった。
私を怯ませたのは、全身包帯姿だったからだ。
半袖の腕も、ワンピースの下の足も、そして顔中も。
肌がむき出しの部分はなく、すべてが包帯でぐるぐる巻きに包まれていた。
母親だと判別できたのは、髪型と、言葉少なげながら発せられる声によってのみだった。
逆に言えば、それ以外はまったく見知らぬ姿だった。
うろたえながら「大丈夫?」と訊く私の問いに“母”は答えずに、
「ごはん食べた? お風呂入った?」と問い返してきた。
私がうなずくと、
「じゃあ寝なさい。私も疲れたから寝る」とだけ言って、寝室に直行してしまった。
翌日から、母は外出しなくなった。
それどころか自分の部屋からほとんど出てこなくなった。
しかし完全に引きこもっているわけではなく、気がつくとリビングに食事が用意されているし、私のいない間に洗濯や掃除もしているようだった。
ただ、直接顔を見ることはほぼなかった。
部屋の外から声をかければたいていは返事をしてくれるし、学校のプリントにも目を通し、必要なら書き込んで返してくれる。でもそう言う時でも顔さえ出さず、必要最低限に開けたドアの隙間から腕だけを伸ばしてくるのだった。
その腕は依然包帯がぐるぐる巻きで、見るたびに汚れていくのと、消毒液のような匂いが気になった。
買い物は通販で済ましているようだった。基本的に置き配で、帰ってきた私が回収する。
時折寝ているのか不在なのか、昼間でもまったく返事が返ってこない時もあった。
そんな生活が続いた。少なくとも半月近くはそうだったと思う。
しかし不思議と破綻しなかった。
その時の私はどうだったかといえば。最初こそ母親の異変を心配していたが、数日で慣れた。そう記憶している。
だがその生活に慣れる一方で、疑念を抱き始めた。
母は本物なのかと。
病院から帰ってきた日に私が「それ」を母だと思ったのは髪と口調からだけだ。それ以外のことでで母が母であると一度も確証を得ていなかった。
母なら、多少おかしなところがあっても構わない。毎日お化粧をして出かけようと、包帯でぐるぐる巻きであっても。
しかし、別の何かであったら。
そう思うと、私の心の中に得体の知れない恐怖と焦りがうずまいた。
そうしてある時。
学校から帰ってきたことを知らせようと部屋の外から母を呼んだ。
しかし部屋から返事がなかった。それ自体はよくあることだった。
寝ているのか、それともまさか出かけているのか。気にはなっていたがこれまで確かめたことはなかった。
耳をそばだてても、部屋にいるのかいないのかわからない。
私は意を決して、母の部屋のドアを開けた。
カーテンを閉め切った、暗い部屋がのぞく。静かだった。身動きする音も、咎める声もしない。
息を殺してそっと足を踏み入れた。はじめは廊下からの光だけが頼りだったが、次第に目が慣れてくる。
ベッドの布団が膨らんでいた。
寝ているのか。
膨らみの中にいるのは母なのか。
布団を頭から被っていて、髪さえ確認できない。
近づいても動き出す様子はない。寝息も聞こえてこない。
確かめなければ。そう思って、布団に手をかけた。
そっとめくるか、素早くはぎとるか、少し迷って手が止まった。
その時、ベッドから少し離れた棚の上に置かれた母のスマートホンが鳴った。
それは控えめなコール音だったが、私は飛び上がりそうになるほど驚いた。
ベッドのふくらみは反応しない。
起きないうちに音を止めなくてはと反射的に取った。
画面には「お父さん」とある。父からだった。
応答のアイコンを押す。
耳を当てると久しく聞いていなかった声が聞こえて来た。間違いなく父だった。
私は父の声を遮るように一気にまくし立てていた。
母が病院に行ってからおかしいこと。包帯姿のこと。部屋から出ないこと。
化粧をしていたこと。よく出かけていたこと。
母じゃないかもしれないこと。
すべてを言いきって、父の応答を待ったその時。
ベッドの布団がぼこぼこと波打った。
そうして大波が立つように、頭のほうからめくれあがった。
母が、中のものが、起き上がったのだった。
私は悲鳴を上げて、スマートホンを放り投げて部屋を飛び出した。一瞬たりとも振り返らずに。
いや。
一瞬は見た。布団の波が落ちる瞬間。
そのあとの記憶が曖昧だ。
たしか一旦自分の部屋に逃げ込んだ気がする。しかしそれでは逃げ場がないと気づいて、焦って窓から出たのだと思う。マンションの4階の窓から。
次に覚えているのは、病院で自分が包帯姿になっていることと、父の姿だった。
父は病院にいる間中ずっとついていてくれた。
病院にはそれほど長い日数はいなかったと思う。
退院して家に帰ると、包帯を巻いていない母が、気まずそうに待っていた。
久しぶりに見た母の顔だった。
遠足前には私の怪我は完治して、参加することができた。そのころには父は家に戻っていて、普通の生活をしていたと思う。
そんな「記憶」が確かにあるのだ。
それからやや年月が経って、私がもっと大きくなってからの法事で親戚たちから聞いた話だが。
母は父の不在中、内緒で美容整形手術を受けて数日間入院していたことがあったらしい。
その理由を私にはっきり教える者はいなかったが、それぞれの話を総合すると、それは父以外の男の気を惹くためであったらしいと私は理解した。
当時母は、一応事前に手術ことを私に説明していたようだった。しかし子供相手に詳しい内容やましてや理由を話すこともできず、ちゃんと理解させることがかなわないまま手術を迎えてしまったのだろうと、親戚たちは解釈していた。
そうして退院してきた母を見た私は、ほんの少し顔が変わっていることに動転し、窓から逃げ出して怪我をした――という話だった。
そうだったろうか。
私は腑に落ちていない。そんな真相だったろうか。
私の記憶とあまりにも違いすぎる。
母がなんらかの手術を受けて、私がそれを十分に理解していなかったというのはそうかもしれない。
でも私の記憶では翌日には戻ってきたうえ、その後少なくとも何週間かは包帯姿の母と過ごしている。
あれは何だったというのだろう。
しかしながら、それは大人たちの間で何があったのか知る由もない幼い私が不安の中で抱いた妄想、もしくは悪夢だったというのが落としどころなのかもしれない。
あれから二十年以上経った今も両親は一緒に暮らしている。
改めて当時の写真を見ると、母はたしかにその前後で顔が微妙に変わっていた。
でもそれは、目元と、鼻筋、それにあごの先程度で、言われてみれば確かに、という程度の変化だ。
でも。なおさら思う。
その程度の変化で、ショックを受けたとはいえ窓から飛び出すほどの恐怖にかられるものだろうか。
「記憶」の中で、あの時私が見たのは。
穴だった。
ベッドから起き上がった一瞬、包帯がゆるんで露になった“母”の顔には、何も無かった。
ただ空洞だけがあって、向こう側の髪の毛と包帯が覗いていた。
本当に一瞬のことだったし、恐怖心が見せた錯覚か後の妄想だと言われても否定できない。
それでも、私の中では今でもあの数週間はたしかにあったように思えるし、
今でもふと、今の母は何者なのだろうかと思うことがある。
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