はいはいさん
何度か一緒に仕事をしたことがある、アカダイさんという男性がいる。
彼がまだ某美大の現役学生だった頃、住んでいる市のイベントで堤防の壁面に絵を描く機会があったという。
数年ごとに堤防を彩る壁画をリニューアルする恒例の催しらしく、彼のほかに、同じような市内在住の学生や、アマチュアのアーティストが数名参加した。
「水の生き物」というテーマに沿う限りは自由に何を描いてもよいというので、アカダイさんは好きなカニを描いた。
カニのみを。
白い下地に黒一色で、カニだけを、自分の担当スペースいっぱいに、無数に敷き詰めたのだった。
同じパターンのカニではなく、一色でもしっかり種まで判別できるようにして二十二種類を描き分けたというのが、甲殻類好きの彼のこだわりだった。
イルカやクジラを描いた壁画と比べるとウケは今一つだったが、好きなように描けて楽しかったと、アカダイさんは当時を懐かしそうに振り返った。
ただその時、少し気になることがあったという。
完成披露会に訪れた児童の何人かが、アカダイさんの黒いカニを見て、
「はいはいさん」
と言っていたのだ。
そう呼びながら、いとおしそうに絵を撫でる子もいれば、中には怖がって近づかない子もいたのが、さらに印象に残った。
アカダイさんは「はいはいさん」という名前に全く心当たりがなかった。
彼もその土地で生まれ育ったから、地元の方言や幼児語の類でないのはわかる。
そういうキャラクターがいるのかとも思ったが、検索しても出てこないし、友人や家族に訊いても誰も知らないようだった。
ますます気になったアカダイさんは、彼らの学校の中だけで流行っているものかもしれないと考え、披露会に参加した小学校の生徒が家族にいる知り合いにまで聞いてみたが、やっぱり心当たりがないという。
思い返せば「はいはいさん」と呼んでいた子たちはそろって小さかった。それで低学年以下の、かなり限定された範囲の子たちの間で通じているものに違いないとアカダイさんは推測したが、それ以上の伝手はなく、確かめようがなかった。
そもそもそこまで熱心に調べる理由はない。何をやっているんだと、我に返ったアカダイさんは自分に呆れ、忘れることにした。
しかし。
その名前を忘れる間もなく、アカダイさんは「はいはいさん」の正体を知ることになった。
ある日、自宅を出てバイト先へ向かっていた時だった。
近所の幼稚園の前を通ると、たまたま降園時間と重なって多くの園児たちとすれ違った。
その時。
「はいはいさんだー」
はっきりと、子供が言ったのが聞こえた。
声のしたほうを振り返ったが、どの園児が言ったのかわからない。園児たちは列をなして、幼稚園を囲う塀に沿って角を曲がって消えていく。そちらに帰りの幼稚園バスが停まって待っているのだ。
さすがに園児に声をかけるのは躊躇われた。だが幸い、園の門や曲がり角に、見守りの先生たちが立っていた。
「お伺いしたいことがあるんですが――」
角を曲がる園児たちをガードするように並んで立っている二人の先生にアカダイさんは声をかけて、披露会でのことを説明したうえで「はいはいさん」のことを訊ねた。
アカダイさんの話に、先生たちははじめはきょとんとしていたが、やがて妙に納得した様子を見せて
「それならたしかにうちの園の子でしょうね」
と、笑いながら答えたのだった。
聞けば、一年くらい前から園児たちの間で言われるようになった呼び名らしい。披露会の小学生たちは、ここの卒園生だったのだろう。
「はいはいさん」とは、その頃からこの幼稚園の塀にたびたび見られるようになった、ある種の「落書き」のことだった。
名前の由来は先生たちもわからないという。園児たちに聞いても誰かが言っているのを聞いてそう呼ぶようになった以上の答えは得られなかったようだ。
子供の発想なら、名前自体にはあまり意味がないかもしれない。それにアカダイさんの関心はそこにはなかった。
「……それって、どんな落書きなんですか」
一番気になるところはそこだった。そもそも、なぜ自分の絵がそう呼ばれたのか不思議に思ったから聞きまわっていたのだ。
話だけでは要領を得なければ、持ち歩いているスケッチブックに描いてもらおうかと、アカダイさんは思っていた。
しかし、その必要はなかった。ベテランぽいほうの先生が塀の角を見回して「たしかそのへんにまだあるんじゃないかな」と言ったのだ。
実物があるというのだ。
さきほど聞こえた園児の声は、それを見てのことだったのだろう。
「あれ? 昨日はここにあったはずなんだけど。サトウくんが消してくれたの?」
思っていた場所には見当たらないようで、先生は首をかしげた。
「いや、まだですけど。こっちにあるのがそうでは?」
今度は比較的若いほうの先生が角を回った先を指した。
「たぶんそっちは新しいのだよ。こっちは園長先生がやってくれたのかな。あの人なんでも自分でやっちゃうから」
「そんな頻繁に描かれているんですか」
先生たちを追ってアカダイさんも角を回り込んだ。
「うん、たまにね。まったく誰が描いているんだろうねえ。子供達には注意しているんだけど。あ、これこれ、こういうの」
先生は足元を示した。塀の地面に近い場所に、それはあった。
「これが、『はいはいさん』……」
はからずもアカダイさんは、実際の「はいはいさん」を目にすることになった。
それは、書き損じを消す時にするような、ぐしゃぐしゃした線で構成された、本当にただの落書きだった。
ぐしゃぐしゃした線の楕円に、ぐしゃぐしゃした線の突起が何本もついている。
何か具体的なものを描いたようにも見えないが、毛むくじゃらの虫、もしくはたくさんの脚が生えたタワシ、といった印象の代物だった。
だからたしかに、カニに似ていると言えなくもない。
言えなくもないが。
この時、謎が解けてすっきりしたはずのアカダイさんの胸に、何かもやもやとした感情が湧いた。
アカダイさんは二人に礼を言ってその場を辞した。その時若いほうの先生が自分にだけ聞こえるようにぼそりと言った言葉が、少しだけ気にかかった。
「僕、実は消したことないんですよね。いつも消そうとすると、もう消えてるんですよ。本当に園長先生なのかなあ。なんか勝手に消えてるような気もしてて」
その夜。バイトからの帰り道、アカダイさんはあの幼稚園からさして離れていない場所で、別の「はいはいさん」を見つけた。
マジックで描き殴ったような多脚のタワシが、歩道脇に設置されたポストの片隅に張り付いていた。
アカダイさんが毎日のように通る場所だったが、落書き自体に初めて気づいた。
これまで存在を知らなかったから気づかなかっただけで、思ったよりもあちこちに描かれているものなのかもしれない――。
そう思いながら2体目の「はいはいさん」を見るアカダイさんの中に、さきほど感じたもやもやが、怒りに似た感情に変わるのを感じた。
納得いかない。
子供の無邪気な反応とはいえ、自分の作品が、なんでこんな適当な落書きと同一視されたのか。
そもそも自分が描いたのは、誰が見てもわかるカニだ。カニにしか見えないものを、カニ以外の、それもなんだかよくわかないものの名前で呼ばれることが癪に障る。
自分の中に急に湧きあがったそんな感情に、当のアカダイさん自身が驚いた。
しかし、最初からそうだったのかもしれない……ともアカダイさんは思った。きっとわだかまりがあったからこそ、「はいはいさん」の正体についてしつこく調べようとしたのだ。
それで。つい。
アカダイさんは常に持ち歩いているペンをカバンから取り出した。
そして、「はいはいさん」を塗りつぶし、自分のカニの絵で上書きしてしまったのだった。
家に帰ってすぐに、アカダイさんは自分の衝動的な行為を後悔した。
公共物に描いたこと自体もそうだが、あまりにも大人げなさすぎる。それに堤防の絵を見た人なら、自分の描いたものだと気づきかねない。
それで明け方、アカダイさんはエタノールのボトルを手に家を出て、こそこそと昨夜の現場に向かった。
そして、朝日を浴びるポストの一角を見て驚いた。
昨夜描いたばかりのカニの絵が、見るも無残にボロボロになっていたのだ。
殻が内側から割れ、手足がバラバラになっている。
まるで食い破られたかのように。
アカダイさんは困惑した。
元の絵を一部か全部を消してから描き直さないと、こうはならない。
自分が描いてからそう時間もたっていないうちになされた行為に、アカダイさんは寒気さえ覚えた。
ボロボロのカニの絵はアカダイさんのエタノールで簡単に消えた。そしてその絵の下には「はいはいさん」はなかった。
犯人はアカダイさんと同じようなごく普通のペンとエタノールを使って、頻繁に描いたり消したりしているのかもしれない。だとすれば幼稚園の先生の「勝手に消えている」という印象も、カニの絵が夜のうちに描き直されたことも一応の理屈は通る。
そんな手間を、何のために?という疑問は残るが。
いてもたってもいられず、アカダイさんはその足で幼稚園に向かった。ほかの「はいはいさん」を確かめたかったのだ。
しかし壁じゅうを探しても、昨日の絵も別のものも見つけられなかった。
どれだけ探しまわったのか、そのうち園の門が開けられる音が聞こえてきたので、慌てて幼稚園を離れた。
家に帰り着く直前、母親に連れられた園児を見かけた。近いので徒歩で通園しているのだろう。
その子が何かを見つけるや、急にしゃがみこみ、垣根の下を覗き込んだ。
猫でもいたのかと思っていると、その子が
「はいはいさん」と呼びかけた。
どう考えても落書きがあるような場所じゃない。
じゃあその子は何を見ているのか。
そう思った途端、不意にアカダイさんの中で「勝手に消えている」という言葉も、内側から「食い破られた」ようなカニの絵も、別の意味を帯びてきた。
いまにも垣根の下から何かがわらわらと這い出して来るような気がして急に恐ろしくなったアカダイさんは、逃げるように家に駆けこんだのだった。
それからしばらくは、アカダイさんは町を歩く時に神経質になった。落書きや子供の様子が気になるだけでなく、生き物や小さなものが動いているのにも過剰に反応するようになってしまったという。
そんなある時、近所で古いビルの解体工事があった。
そのビルがなくなって、隣接していた建物の側面の壁が露出しているのを見た時に、アカダイさんは悲鳴を上げそうになった。
久しぶりに光を浴びた、塗装されていないその壁に、4、5本の、毛虫のようなぐしゃぐしゃした線が走っていて、背面に回り込んでいた。
それが巨大な「はいはいさん」の脚に見えたのだ。
その「脚」は翌日にはなくなっていた。それがますますアカダイさんを恐れさせた。
しかしそれ以降、神経質な目をもっても新たな「はいはいさん」を見かけることはなく、ほどなく気持ちも落ち着いていった。
それが十数年前のことだという。
「だいぶ前にその街を離れた今となっては、自分のことながらまるで昔話の出来事のように思えますね」
そうアカダイさんは言いつつ、「でもですね」と続けた。
「堤防のイベントって、自分が参加した時までは数年ごとの開催だったんです。そのくらいになると壁画が消えかけたり汚れたりするからですね。でも、その後しばらく毎年やっていたんですよ。その理由が、ものすごい速さで絵が劣化するようになったかららしいんです。そのうち年1回でも追いつかなくなって、いつのまにか壁画自体が描かれなくなったって、後で聞きました」
そうしていくらか声を落として付け加えた。
「もしかしたら自分が覚えさせてしまったのかもしれませんね。絵に描いた生き物の味を」
そう言うアカダイさんの目は、まったく笑っていなかった。
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