涼道

 昨年の夏、ヨシキリさんは近所である発見をしたという。


 彼女の家から最寄りの駅へ向かう途中、公園も兼ねた幅の広い遊歩道を通ることになる。その一画に、猛暑の中にあっても異様に涼しいスポットを見つけたらしい。

 日陰にいても熱気が体力をごりごり削る暑さの中、うんざりしながら歩いていると、ふいに冷気が包み込んでHPゲージを回復させる。そして二歩も歩きすぎれば、また熱波が戻ってきてゲージを削りだす。そのほんのわずかのエリアだけ、すぐそばにエアコンの吹き出し口でもあるのではと思うほどに涼しいのだ。


 原因はわからない。

 そのスポットは木陰の中にあるが、そもそも遊歩道の大部分がそうだ。

 遊歩道の片側はブロック塀が続いている。スポットのすぐ横の塀の向こうは、ヨシキリさんがこの町に住み始めた頃からずっと空き地になっている。一方その反対側を並走している車道より向こうは、何の変哲もない住宅地と畑があるだけだ。

 そこだけとりわけ風通しがいいとか、水辺があるとかでもない。


 そんな謎のスポットだが、ここ数年の異常な暑さの中を徒歩移動する身にとっては「ちょっとしたオアシスのよう」だとヨシキリさんは言う。

 家から駅までの道のりの、おおよそ3分の2のところにそれはある。発見以来ヨシキリさんは、夏の間は通りがかるたびにそこで一旦立ち止まり、HPを回復してから残り3分の1に挑むようになった。

 とはいっても、とどまっている時間は大抵1分もない。電車で出かけるためだったり、駅前で買い物するためだったり、その先に用事があってそこを通るのだから、長居するわけもなかった。


 なお不思議なことに、夏の暑さが去る頃にはそのスポットからも冷気を感じなくなった。原因自体がわからないのでなんとも言えないが、時期によって冷気の湧き具合に変動があるのか、もしくはスポット自体が移動しているのではないかと、昨年のヨシキリさんは想像した。

 その予測が当たったのか。

 今年の7月に入ったころ、ヨシキリさんは同じ場所に「冷気スポット」が復活していることに気づいた。今年もまた異常な暑さだ。ヨシキリさんは再び一時しのぎのオアシスとしてスポットを利用し始めた。


 だがある時。つい先日のことだ。


 その日はお盆休みのただ中だった。

 ヨシキリさんは家で昼食をとってから、駅前の本屋にでも行くことにした。

 玄関を出るなり、焼けつく空気の中に出たことを少し後悔したりした。

 そうして遊歩道を通り、例のスポットを踏んだ。

 いつも通り、冷気が消耗した体を癒す。

「あ」

 そこで急に、本屋はお盆休みかもしれないということに気づいた。

 しかしもう残り3分の1のところまで来ておいて、今さら確かめる気にもなれなかった。

 一方逆に、運良く開いていたとしても、別に明確に買いたいものもない。お盆だから新刊も出ていない。そんなことも強く意識された。

 引き返す気にもならないが、急ぐ理由も、行かなけれなならない理由もなかった。

 そう思うとヨシキリさんは、完全にそこから動く気をなくしてしまった。

 塀に背を向け、心地よい謎の冷気に包まれながらスマホを取り出して、SNSを眺めはじめた。

 長居するほど、快適なここからますます動く気になれなくなる。一歩出れば熱波の地獄だ。SNSを一通り確認すると、ショート動画にとりかかった。

 そうして20分くらい経ったろうか。


 ドンッ


 ヨシキリさんは背後から思い切り突き飛ばされた。

 つんのめって、スポットから転がり出て地面に両手をついた。しゃがみ込みながら突然の衝撃と暑さに動転しつつ、何ごとかと振り向いた。

 誰も何もいなかった。塀があるだけだった。

 周囲にも人の気配さえない。うるさかったセミの声も心なしか遠のいている。

 おそるおそる辺りをうかがいながら立ち上がりかけたその時。

 ヨシキリさんの前を、無数の見えない何かが駆け抜けた。

 音がしたとか振動があったとかではなく、ざわざわとした濃い気配が横切ったのを感じたのだという。

 それはほんのわずかな間で、すぐに何も感じなくなったが、ヨシキリさんは心底驚いてまた尻もちをついた。

 車道で急ブレーキの音がした。見ると車が何もないところで止まっていて、やがてのろのろと動き出した。猫でも飛び出してきたのだろうか。

 別のところから「わっ寒っ。何?」と言う声も聞こえた。


 しばらく座り込んだままでいたが、ようやく立ち上がろうとしたヨシキリさんはふと地面を見て、ギョッとした。

 夥しいほどの足跡が、ヨシキリさんが立っていた冷気スポットから遊歩道を横切るように続いていたのだ。

 いつできた足跡なのかは不確かなものの、エッジの立った跡はつい今しがたできたものとしか思えなかったという。

 大きさも種類もまちまちだった。子供のものと思われる靴跡もあれば、裸足や、草履の足跡もあった。

 ヨシキリさんはそれを見て、自分が涼んでいた冷気の由来を、なんとなく察した。


 一抹の気まずさを感じたヨシキリさんは、早々にここを立ち去ることにした。

 でもその前に「もうちょっとだけお邪魔しますよ」とひとりごちて、10秒ほど涼んでから駅に向かったそうだ。

 驚くやら呆れるやら。畏敬の念すら湧く。


 しかしヨシキリさんの話を総合すると、とても良いものとは思えない。少なくとも生きている人間にとっては。

 そのことを指摘すると「たぶんね」と言って、ヨシキリさんは素直にうなずいた。

「あんなに涼しいのに、他の人はもちろん、動物だっているところを見たことないしね。みんな無意識に避けているんじゃないかな。そこの車道も交通量は少ないのにちょいちょい事故があるんだけど、それもアレと関係あるような気がしてる」

 そう言いつつ「でもね」と付け加える。

「私はなんともないんだよね。この暑さのほうが体に悪いよ」

 この日もちょっと涼んでから来たと言うヨシキリさんは、たしかに却って元気そうだった。

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