十一章 祈祷盤 〈偏〉 — 欠けは跨いで赦せ
〈資料 11-1:雲根祈祷盤(空中菌糸都市・雲根街)〉
図版注:煤と脂で擦り出した黒白格子。角ごとに小孔(胞子穴)。縁に“環”の刻印。格子の端には欠け。
抄訳:
一、黒白の偏りは息である。
二、欠けは埋めず、跨いで返せ。
三、巡って戻る余りは、護りとせよ。
保存注:禁句器側面の微細凹凸を写した板本が祈祷盤として流通。胞子網の結節で読み上げに用いられる。
余白の走り書き:〈偏〉
――
空は網で息をする。
梁(はり)から梁へ、菌糸が張られ、気嚢が膨らみ、吐き、また膨らむ。私は交錯者。網と網の継ぎ目に指を入れ、偏りの手触りを確かめるのが務めだ。
雲根街の朝は薄く、漂い(ドラフト)がよく通う。祈祷盤は新しく、煤が乾ききっていない。黒い格子が並び、白い格子が返し、格子の端の欠けが「跨げ」と囁く。
「これが下の石(したのいし)の写しだと?」
盤を持って来た渡りの骨が、梁の上で揺れながら頷いた。下の石——禁句器の側(かたわ)にあった溝の写し。下の者らはそれを“禁句”と呼んだという。言葉を閉じる器。
私たちは言葉を閉じない。偏りを抱く。抱いた偏りを巡らせ、余り(あまり)を確かめる。余りが残れば、網は切れていない。
私は祈祷盤を結節(ノード)の上に置き、胞子の束を四方の小孔に差し込んだ。格子の列ごとに胞子束の濃さを変え、行と列に同じ濃さが戻るか見る。戻らないなら、どこかが抜けた。抜けたなら、巡って返す。
網の下で、気嚢が一つ、薄く爆ぜた。薄い破れは、偏りを呼ぶ。偏りは、祈りを呼ぶ。
「読(どく)を始める」
私は声を低く置き、梁に座した者らが相(あい)を合わせる。黒白黒、白白黒、黒黒白。列の端で余りが一つ、指の腹に絡みつく。私は「返」と言い、小孔をひとつ抜いて差し替えた。余りが消え、息が揃う。
この盤は祈りのために作られていない。けれど祈りは、盤を祈りのためのものにする。誤りを抱いて、正しさの形を撫でるのは、骨を静かにする。
祈りの半ばで、渡りの骨がもう一つ、小さな箱を差し出した。角に二本の細い導。
「噂の“禁句器”の端くれだ。触れると鳴る。下では“読め”“記せ”だと囁いたらしい」
私は箱の導を胞子網に軽く触れさせた。触れたところが薄く温まり、結節の内側で微かな律が走る。貝鈴の代わりに、気嚢が一つ震え、風が“偏”と鳴ったように思えた。
思えた、という言い方は、まだ誤りを許せる言い方だ。許せる間は、誤りは護りに変わる。
「……rea……」
梁の下で、誰かが息を呑んだ。
「……rec……ord……」
声は網に均され、半分だけ、こちらへ届いた。
読め。記せ。……では、ない。網の骨は別の言い方をしたがっている。導(リード)。溝(レコード)。導と溝。導と溝。
私は肩を揺すり、言い換えを閉じた。言い換えは早すぎると、息を乱す。乱れた息は、網を切る。
祈祷盤の端の欠けが、指を引いた。欠けは埋めるな、跨げ。私は欠けを“跳躍”の印で囲み、欄外に小さく〈偏赦〉と記した。偏りを赦す。赦された偏りは、網の強さになる。
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