五章 返納 〈戻〉 — 原は戻すためにある

〈資料 5-1:返納の儀(杭列沖・返納潮窪)〉

図版注:干潮時に露出する潮窪の図。薄板を布で包み、石錘で沈め、麻縄で杭に結び、潮に返す手順。欄外に「戻」「沈」「封」。

抄訳:

一、原は戻すためにある。

二、沈めたものは、欠けを抱いて呼吸する。

三、封は解けるように結べ。

保存注:返納の場所は杭列沖の第三窪。のちに“封印器”と呼ばれる木枠が近傍で発見される。

余白の走り書き:〈戻〉


――


南の風が続き、返しの石板の前で言い争いが続いた。

濃く返す派が“見える正しさ”を掲げ、薄く返す派が“聴こえる正しさ”を掲げる。旗がぶつかるたび、石板の角が欠けた。欠けはふいに美しく、だが美しさは争いの血を吸う。私は血の色を見たくなかった。見ばなしにしておくには、骨が軽すぎた。


「戻す」


評定の席で、私は言った。礫母は砂を握り、放した。「戻しても、戻らぬ」


「戻すために記す」


言いながら、私は自分の言葉の薄さを測った。十分に薄いか。薄すぎはしないか。

スイは何も言わず、麻縄を準備した。彼は枠の横木を外し、葦の芯を束ね、〈息鈴〉を布に包んだ。包みは四つ。薄板のための布は別に一枚。布の肌合いは粗く、塩を吸う。吸った塩は、重く沈む。


干潮。杭列の先に、潮窪が三つ、黒い口を開ける。

私は薄板を手に抱いた。骨の重さと同じ、あるいは骨より軽い。軽さは罪で、救いだ。スイが石錘を二つ持ち、礫母が麻縄の端を握る。人は少ない。巡礼番は遠巻きに見た。旗は降ろされたままだった。


潮窪の底は滑り、藻の触手が指に絡んだ。布で包んだ薄板を、私は水の中で一度だけ撫でた。撫でると、音がした気がした。気がしたというのは、確かめないための言い方だ。ここでは、確かめないことが正しい。

布の上から〈聴〉の印を指でなぞり、〈待〉の印を隣に加え、〈戻〉を新しく押した。押すというより、濡れた布に指で言葉を埋め込んだ。


石錘を布の両端に結ぶ。結びは、解けるように。強く、弱く。潮に解け、潮にほどけ、潮にほどけぬように。礫母が麻縄のもう片端を杭に回し、結び目に砂を一掴み落とした。砂は締まり、結びは海の匂いになった。


「おまえの骨を、置いていくのか」と礫母が問う。

「置いて、借りる」


私は答え、潮窪に膝を沈め、包みを水に預けた。水は冷たく、骸のことをよく知っていた。薄板は一度だけ浮き、石の重みで静かに沈んだ。沈む途中で、布の端がほどけそうになり、スイの指が飛んだ。彼は結びを締め、私の手首に短く爪を立てた。骨は、ここにいる。


縄を杭に渡し、余りを巻き、砂で覆った。覆いすぎない。覆えば忘れる。忘れれば、他の骨が掘り当てたとき、呼吸を間違える。間違える余地を残して、私は戻った。


「枠はどうする」


スイが問う。

「枠は、呼びかけだ。呼びかけは残す」


波律琴の横木は短く切られ、葦の芯とともに樽に収められた。樽の口は樹脂で薄く封じられ、杭の影の下に埋められた。封は解けるように結び、解けないように薄く塗る。呼びかけが土に眠ると、土は呼吸を変えた。呼吸の変化は、遠い誰かの地図になる。


返しの石板の前に戻ると、声は小さくなっていた。石板の角は、もう欠けるところが少なかった。欠けるところが少ない石は、割れる。割れれば、なかったことにはできない。

私は石板の上に指で〈欠〉を囲み、欄外に〈赦〉と書いた。赦すことは、記すことより難しい。けれど、赦さないと、薄いまま重ねる場が枯れる。


夜、風が変わった。

〈息鈴〉は外したまま、枠は黙っていた。黙る枠は、呼びかけの形だけになり、静かに美しく、危なかった。美しさは旗になるからだ。スイは灯を近づけず、礫母は砂を撒かず、私は紙を巻いた。通譜の表紙の〈聴〉の隣に、〈戻〉の小印が増えた。


「戻すために、わたしたちは記す」


私は紙の余白に書いた。

記すことで、いつか誰かが解く。解くことで、いつか誰かが誤る。誤ることで、いつか誰かが作る。作ることで、私たちは戻る。戻る場所は、潮窪の底。戻る道は、骨の中。

潮の音は遠く、星の光は薄い。薄いまま、重なって見えた。

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