四章 巡礼路 〈渡〉 — 薄く返して旅する

〈資料 4-1:巡礼路略図(沿岸PUCA連合・杭列以南)〉

図版注:杭列を起点に、湾口へと続く浜道に“聴処(ききどころ)”の印。各所に〈息鈴〉と“返”の記号。欄外に「渡」「印」「薄返」。

抄訳:

一、譜は持ち出してよい。聴かれるためにある。

二、返しの印は旅の証。

三、欠けは各地の風で変わる。

保存注:評定により“通譜”の発行を許可。巡礼商の台頭。

余白の走り書き:〈渡〉


――


杭の影が短くなる頃、最初の巡礼が出た。

手には写しの束、腰には小さな〈息鈴〉。彼らは浜ごとに帆布を張り、薄板のない枠——“呼びかけ”だけの骨組みを立て、風と潮を聴処に変えた。紙の欄外には、訪れた浜の〈返〉が押される。返の印は薄いほど良い、と言い出したのは誰だったか。薄く返せる骨は、薄く返せない骨より上等だ、と旗が立ったのはいつだったか。


通譜は、海藻の紐で綴じ、印〈聴〉と〈待〉を表紙に刻む。私の手を離れた写しは、他の骨の手に重なり、別の呼吸で薄くされる。通譜を携えた者たちは、聴処を巡り、欄外の〈返〉を集め、戻ってくる。それを見た誰かが言う。「多くの印は、よく聴いた証だ」。次の誰かが言い換える。「印の多い者は、上座に」。言い換えは、すぐに石の文字になる。


スイは、行き交う骨の流れを見て、息を短くした。「速すぎる」

私は首を振る。「海の速さだ。私たちは遅れるか、流されるか、どちらかだ」


礫母は評定の場に“通譜商”を招いた。通譜の写しは、塩や乾魚と同じように、杭の脇で値が付く。骨を運ぶのに軽いのは悪くない。悪くないが、音はやせる。薄いままを重ねることと、薄くなることは、似ていて違う。


「薄返しの帯を作ってくれないか」と誰かが言いに来た。

帯? 私は笑い、笑った自分の骨が急に冷えるのを感じた。「返しは紙の上で薄くするものだ。帯で薄くはならない」


頼みに来た者は、頷きもせず去った。夕暮れの杭列に、白い帯がいくつも揺れた。帯の端には細い銀色の貝片が縫い込まれ、風に鳴った。鳴りは美しい。美しいが、鳴きではない。


――


巡礼はやがて“巡礼番”を名乗った。聴処への入り口に座り、通譜の表紙に〈渡〉の印を押す者。印が押されると、骨が外から内に変わる。内に入るには三つの息を揃えよ、欠けは跳ぶな、返しを薄く、と番が唱える。唱えるたびに、聴く前に覚える骨が増える。


「息が三でなければならないわけではない」


私は小さく言った。番は首をかしげただけで、三本の指を揃えた。

北の浜の者たちは二と四の息で通譜を返し、欄外に自分たちの〈返〉を重ねた。印は美しく、薄かった。薄いのに、厚く感じられた。印が骨の外側に、身分のように貼り付いたからだ。


交易は賑わい、旗は増え、声は太った。杭列の根元には、返しの印を刻んだ石板が立つ。石の表面は波で磨かれ、印は日に焼かれ、譜は固まる。固まるたび、どこかが割れる。


「遠い浜で、返しを濃くした者たちが現れた」とスイが報せて来た。

濃く返すのは、誤りのなかでもいちばん悪い。濃くすれば、鳴きは死ぬ。けれど濃い返しは目に易しい。目に易しいものは、旗になる。旗は集められ、掲げられ、争われる。


私は、通譜の欄外に小さく書いた。〈薄いまま、重ねよ〉。書いて、もう一度書いた。書きながら、紙の薄さが指に痛かった。指が痛いのは、骨が遅れているせいだ。


巡礼路は杭列以南から湾口へ延び、その先で二手に分かれた。海松の森の陰を行く道と、白砂の上をまっすぐ行く道。二手の道の先に、二つの“印の市”。印に値が付く。値は、軽さと薄さと多さで決まる。軽く薄く多いものが上座。重く濃く少ないものが下。骨の上下は、紙の上下へ移る。紙の上下は、床の上下へ移る。


私は礫母に言った。「原の薄板を、しばらく隠す」

彼女は目を細め、砂を一握り落とした。「いつまで」

「風が変わるまで」

「風は、いつでも変わる」


礫母の手の砂は、床で散らばった。散らばりは、地図に見えた。地図に見えるものは、すぐに地図になる。地図になったものは、すぐに道になる。道は、上下を作る。


夜、私は枠の貝油の灯を小さくした。〈息鈴〉は外した。息を揃える前に、骨を揃えたい。骨を揃える前に、海を見たい。海を見たら、戻していいか。戻すとは、何を。


名が走る。印が追う。

私は紙の端にもう一度だけ書いた。〈渡〉。渡すために書いたのに、渡ることで遠くなる。遠くなるから、誰かが求める。求めるから、濃くなる。濃くなるから、私は薄くしようとする。薄くするために、いったん遠ざける。

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