三章 波律琴 〈枠〉 — 枠は呼びかけ
〈資料 3-1:波律琴試作図(沿岸PUCA連合・造作房)〉
図版注:杭二本を肋とし、横木で枠を組む。上部に滴り壺、下部に受け皿。薄板は中央に吊す。潮位印と〈息鈴〉(貝殻)を左右に配置。
抄訳:
一、滴は三つで息をひとつ。
二、返しは軽く、弦を張らず。
三、濡れは広げず、細い道を作る。
保存注:設計は記譜師エラと採集師スイ。潮汐差の大きい湾での運用を想定。
余白の走り書き:〈枠は呼びかけ〉
――
枠は答えではない、と自分で書いておきながら、私たちは枠を作った。
杭を二本、砂に深く打ち、横木で肋骨のように組む。上に小さな壺を吊り、布で濾した塩水を入れる。壺の口には葦の芯を詰め、滴りを調える。中央には薄板。布越しに抱くと、子の肋のように軽い。枠が風で鳴らぬよう、貝の重りを四隅に吊る。
スイは指先の早い子だ。葦の芯を抜き差しして、滴る間隔を三で揃える。「三つで息」と、彼は小声で唱える。私は薄板の縁に“細い道”を作るため、塩を指で引いた。濡れが広がると鳴きがぼやける。細いまま、細いまま、と言い聞かせる。
「弦は、張らない」
スイが横目で私を見る。「張れば楽なのに」
「楽は、鳴きの邪魔だ」
礫母が来て、枠を一巡り眺めた。風は西。壺の口の滴は、葦の芯の太さでわずかに前後する。礫母は貝殻の束を一つ、私に渡した。「〈息鈴〉だ。三つ落ちたら、これが鳴る。人の呼吸を外に置けば、中が揃う」
私は貝のひもを潮位印のそばに吊った。風がかすめ、貝はまだ鳴らない。
潮が満ち始める頃、枠の影は短くなり、濡れた砂が暗く息をした。壺から三滴が落ちるたび、〈息鈴〉が微かに触れ合い、薄板の上の細い道に丸い光が走る。最初の和音は、いつもより遅れて来た。遅れたぶん、骨に深く沈んだ。
「……四つ」
スイが息を止める。和音に、短い尾のような高さが付いた。昨日、紙の上で一度だけ現れて、逃げた高さだ。私は慌てて指で道を細くし、尾を追う。追いすぎれば、道が切れる。切れれば、鳴きが死ぬ。息鈴が鳴り、私の肩が落ちる。
「欠けは跳ぶ」
私は紙に小さく書いた。〈欠〉の印を、薄板の縁の割れに重ねる。跳ぶことを許すには、跳ぶ前に待てる骨が要る。待たずに掴みにいくと、歌が濁る。
夕方、見物人が増えた。子どもらは貝鈴の前に座り、三つ数えるたび、指を折った。年を取った骨は少し離れて立ち、風の向きと潮位を見た。スイは枠の横で、葦の芯をわずかに回し、滴りを整える。その手つきは、もう私の真似ではない。彼自身の骨の速さだった。
「これを“鳴かせる人”を決めよう」
誰かが言い、別の誰かが言い返す。「鳴かせるのではない。鳴くのだ」「鳴きを待つ骨が要る」「待てぬ骨は外へ回れ」。
声の輪ができ、輪はすぐに制度の影を落とす。私は輪から半歩離れ、薄板の表面に浮いた塩の縁を指で払った。払うだけで、音は変わる。払うだけで、声も変わる。
――夜のはじめに、風が変わった。
西から南へ。葦の芯の飽きが出て、滴りの間隔が乱れた。〈息鈴〉が思わぬ場所で鳴り、和音が崩れかかる。輪の内側の誰かが慌てて手を伸ばし、薄板を押さえた。押さえれば、死ぬ。私はその手を掴んだ。遅かった。和音が濁り、尾が千切れ、骨の内で何かが転がり落ちた。
「やめろ!」
スイの叫びは鋭く、枠に跳ね返った。
押さえた者は肩をすぼめ、手を引いた。濁った音は、しばらく砂に沁み、やがて消えた。輪は沈黙になり、誰もが自分の骨の内の濁りを聞いた。私は壺の塩水を少し捨て、葦の芯を短く切った。滴りが落ち着く。〈息鈴〉が三度だけ、正確に触れ合う。
「枠を守る番を置く」
誰かが言い、幾人かが頷いた。輪はすぐに番の名簿を作り、印を刻み、交代の時刻を決めた。決めるたびに、音から遠ざかることを、誰もまだ言葉にできない。
「番は二人。ひとりは枠を見る。ひとりは海を見る」
私は言って、名簿の端に〈海眼〉の印を付けた。枠の内のことばかり見ていると、海の気分を忘れる。海の気分が鳴きを連れてくる。
――
三日目の朝、潮は高く、風は弱かった。
薄板は静かで、静けさが豊かだった。三滴、〈息〉。三滴、〈息〉。返しは薄く、薄く。尾は来ず、代わりに低い底のような響きが長く残った。人の輪は小さくなっていた。番が整えば、見物は減る。音は、少しだけ濃くなった。
「祭にするのか」
礫母が問う。私は答えず、貝鈴を一つ取り下ろした。鈴の数を減らすと、呼吸の揃いは乱れるが、骨は自分で揃えようとする。骨が自分で選ぶのを、私は見たい。
「祀れば、護れる」
礫母は続ける。「護れば、固まる。固まれば、割れる。割れたあとに残るのは、名だ。名は軽くも重くもなる」
私は紙の端に〈祀〉と書いて、指で消した。指の腹に藍がつく。消した跡は残る。残る跡が、次の書き付けの位置を決める。
スイが近づき、低く言った。「枠の底、砂が掘れてきた。杭の足を深くするか、場所をずらすか」
「ずらす」
私は即答した。「骨が覚えるより先に、場所を変える」
杭を抜き、三歩だけ南へ。砂の硬さが違う。波の角度もわずかに違う。滴りは同じでも、和音は同じではない。〈息鈴〉は三度で鳴かず、四度目に触れ合った。輪の内の骨がざわめく。四は、落ち着かない数字だ。私は肩を竦める。「海の機嫌だ」
その夜、スイが枠の側に小さな灯りを置いた。風に揺れない、貝油の灯。灯は薄板を照らし、溝の陰影を濃くした。濃くなった陰影は、鳴きではない。だが、鳴きを待つ骨を静かにした。
「祀る灯りではない」
スイが言った。「待つ灯りだ」
私は頷いた。
灯りの下で、私は紙を巻き、次の写しを作った。欄外に、今日の〈欠〉と〈待〉の位置。滴りの間隔の揺れ。潮の匂いの濃さ。風向き。〈海眼〉が聴き取った遠い波間の沈み。書くたびに、音は紙の上で別の形に整う。整うたびに、薄くなる。薄くなることを恐れず、薄いまま重ねる。
――
四日目の昼、遠来の者が現れた。
北の浜の者らしく、衣に塩花の模様。彼らは枠を見て、紙を見て、短く礼をした。そして、持ってきた紙束を差し出す。そこにも五本の筋があり、点があった。息の印は三つではなく、二と四で揺れていた。欄外の小さな記号は、私たちの〈返〉に似て、しかし違った形で、濃く塗られていた。
「あなたたちも、読むのだな」
私が言うと、彼らの長が答えた。「読む。だが、歌うとは言わない。これは潮の地図だ」
私は紙束の一枚を開いた。点の並びは、私たちの和音の影と、確かにどこかで重なっていた。だが、彼らは息を“渡り”と呼び、返しを“折返”と呼び、欠けを“避け”と呼んでいた。
名が違えば、骨の働き方が違う。違いは、遠くから来て、近くに残る。
礫母が紙束を撫で、笑った。「良い。間違いが増える」
私は笑い、同時に少しだけ怖くなった。間違いは創る。創るものは、壊すものでもある。
枠の上で、葦の芯が乾いた。スイが新しい芯を差し、滴りが三度整った。〈息鈴〉が鳴る。北の浜の者たちの骨が、わずかにこちらへ寄った。
「祭りにはしない。だが、集いは増やす」
私は輪に向かって言った。「集いは“読む”ため。“唱える”ためではない」
輪はざわめき、いくつかの旗は降り、いくつかは別の旗と結び変えられた。
その晩、私は箱の蓋に新しい印を刻んだ。〈集〉。〈聴〉の隣、〈待〉の下。
箱を閉じる前に、薄板をもう一度だけ撫でる。指の腹に、塩の角がやわらかくあたる。骨の奥の耳が、静かに開く。
名は走る。枠は呼びかける。
走る名と呼びかけのあいだで、私たちは薄く重ねる。
重ねながら、私は知っている。これが“枠のはじまり”であり、“誤りのはじまり”でもあることを。
それで、いい。いいが、忘れぬように、欄外へ小さく書き付ける。
〈薄いまま、重ねよ〉
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