二章 初稿 〈息〉 — 三つで息をひとつ
〈資料 2-1:塩線譜初稿(沿岸PUCA連合・書記房)〉
図版注:五筋の線を藍で引き、その上に乾いた塩粒を置いて“点”を示す。欄外に「息」「待」「返」の三記号。
抄訳:
一、点は三つで息をひとつ。
二、欠けは跳躍として読む。
三、返しは薄く重ね、濃くしてはならない。
保存注:書き手は記譜師エラ。初稿ゆえ訂正多し。
余白の走り書き:〈名は先に走るな〉
――
朝の塩は角がやわらかい。
夜の湿りが残るうち、私は記録所に戻った。薄板は布の下で静かに眠っている。匙で塩水を一滴、角に置く。波の指を待たず、指先でわずかな流れを作る。耳で、骨で、昨日の和音の影を探す。見つかる。影は昨日より薄いけれど、たしかにそこにある。
「名を付けるのか」
背で声がした。評定の女長、礫母(れきぼ)が戸口に立っていた。灰の髪を紐で束ね、掌に砂をひと握り。その砂を床に落としてから、彼女は中へ入った。砂が均された石の上で微かな音を立てる。
「名は鎖だ。要る時は重く、要らぬ時は足を縛る」
「知っている」
私はうなずく。紙の上で五本の筋を引き、薄い藍で乾いた塩を置く。吸い込む息。手を止める。吐き出す息。点を一つ。もう一度。三つ目の点を置き、欄外に小さく〈息〉と記す。礫母が身を屈めて見た。
「三つで息、か。おまえの骨は、それを覚えるのだな」
「骨は海に似る。似てしまう」
私は自分の胸骨を指先でなぞった。昨日の若い採集師が、戸の外に立っていた。名をたずねると、彼は「スイ」と答えた。彼は紙を覗き込み、五本の筋と点の間を目で行き来した。
「鳴きは、これになるの?」
「鳴きを、こう読む。鳴きそのものではない」
私は言い直した。「骨が拾った差を、骨がわかる差にして渡す。骨は間違う。だから薄いまま重ねる。濃くしてしまえば、鳴きではなくなる」
礫母が、数歩下がって薄板を見た。布の端からのぞく黒い面は、朝の光を飽きるほど返している。その細さ、その薄さが、何かを招く。私は布を半分だけめくった。過ぎないように、見せ過ぎないように。
「市で、この“読みに方”を配ることはできる。だが、祭器はまだいらぬ」と礫母。
「祭器?」
「おまえの骨は、たぶん枠を欲しがっている。薄板の鳴きを反復させる枠だ。だが今、枠は名を固め、名は人を固める。固めれば、折れやすくなる」
私は紙に視線を戻した。欄外に新しい印を考える。〈待〉。二拍、空ける。波の引きの時間。人はそこで呼吸を揃える。〈返〉。同じ高さを重ねる時は、薄く。重く重ねると、鳴きが死ぬ。
「配るのは、これだ」
私は紙を巻いて紐で結び、印を押した。印は〈聴〉。スイが目を輝かせる。礫母は、頷きもしないが、否とも言わない。評定の人間は、言葉よりも沈黙で針路を示す。
昼が近づくと、浜の杭の影は短くなり、風が少し変わる。私はスイと杭の列へ向かった。砂の上に五本の線を引く。足で。踵で。スイにも一本、線を任せる。塩水を掌に取り、線に沿わせて垂らす。砂は一瞬だけ濃くなり、すぐ乾く。
「ここを、息に」
私は貝殻を三つ並べ、スイに合図した。彼は肩をすくめ、喉の奥で少し音を出した。高い。低い。高い。潮の引き際に合わせて、二人で踏む。踏めば砂が沈み、砂が沈めば足の骨が応える。応えが揃うと、わたしたちは笑った。笑いは、鳴きよりも早く広がる。子どもらが、杭の影から集まってくる。老人が腰を下ろし、目を細める。
「これが歌か」
誰かが言い、誰かが言い返す。「歌ではない。読み方だ」「読み方が歌を連れてくるのだろう」「なら、歌だ」。
言い争いは良い兆しだ。言い争いは、骨に挟まった塩を落とす。
私は砂の線の端に、印〈返〉を指で描いた。子どもらに「ここは薄く」と言う。彼らは「薄く」がわからず、笑いながら濃く踏んだ。砂は深く沈み、そこだけ形が崩れる。崩れた形は美しい。だが、それは鳴きにはならない。私は笑い、同時に、遠くの波の高さを見た。午後には風が変わる。鳴きは粗くなる。
記録所に戻ると、礫母が待っていた。彼女の前に、三つの紙束が置かれた。どれも私の書いた塩線譜の写しだが、筆跡が違う。若い書き手たちが、朝のあいだに真似て書いたのだろう。
一つ目には点が多すぎた。二つ目には〈待〉がなく、すべてが詰まっていた。三つ目は美しかった。美しさは時に危い。
「誤りを、どうする」
礫母が問う。私は三つ目を手に取り、紙の端を軽くちぎった。小さな欠けが生まれる。その欠けの位置を、欄外に囲んで印を付ける。〈欠〉。
「欠けは跳ぶ。跳ぶなら、跳ぶと記す。跳ばずに濁るのがいちばん悪い」
「跳ぶことを許せば、跳び続ける」
「跳ばせないと、死ぬ」
言い切ってから、私は自分の声の硬さに気づいた。礫母は、しばらく黙り、やがて砂を掌で丸め、その球を卓の上で転がした。
「市で、これを見せる。だが約束してくれ。原の薄板は、おまえが守ると」
私は目を閉じ、頷いた。布の下の薄板は、私の骨の一部のようだった。けれど、骨は個のものではない。骨は渡され、借りられ、返される。
――
市の日。杭の間に布を張り、紙束を並べた。印〈聴〉が並ぶ。人が集まり、指が伸び、声が重なる。声はすぐに派になる。派は声に旗を挿し、旗は線を固める。
「三つの息を五つに増やした方が、呼吸が楽だ」
「いや、三つに戻すべきだ。海は三で息をする」
「欠けの跳躍は、子どもには危い。大人が先に跳べ」
「返しの薄さは、もっと薄く。ほとんど見えないほどに」
私は、旗の立つたびに少しずつ遠ざかった。遠ざかって、全体を見る。声の地図。塩の地図。目の前の地図は、たぶんもう、私の書いたものではない。だが、そうなるのを望んだのは私で、望まなかったのも私だ。
スイが、紙束の脇で小さな枠を弄っていた。杭から外した二本の横木と、海藻の繊維で作った弦。枠の底に薄い貝片を並べ、弦が当たると貝が微弱に鳴く。
「枠を作るのはまだ早い」
私は近づいて言った。スイは手を止め、しかし誇らしげに笑った。
「骨が覚えてしまう前に、骨に渡したい」
彼は弦を軽く弾いた。微かな音が、紙の上の点と不思議に合う。合うのは偶然だ。偶然だが、それは未来を連れてくる偶然だ。礫母が遠くからこちらを見ていた。彼女は首を振らなかった。頷きもしなかった。風が、頷いたり、首を振ったりする。
私は紙の端に小さく書いた。〈枠は呼びかけに過ぎず、答えではない〉。そして、弦の位置に合わせて、紙の点の一つを、ほんのわずか動かした。ルールがひとつ、軽く軋み、しかし折れない。
夕刻、布を畳み、紙束を箱に戻す。印〈聴〉の隣に、新しい小印を刻む。〈待〉。
海は近い。潮の匂いは濃く、風は変わった。今日配られた写しは、多くが別の骨へ移るだろう。移って、そこで少しずつ変わる。変わって、戻ってくる。戻った時、私はどこを欠けとして囲むべきか、どこを跳躍として赦すべきか。
私は礫母と並んで浜に立った。杭の影が長く伸び、貝殻が鳴る。遠くでスイの弦がもう一度だけ鳴った。鳴きではない。だが、鳴きを呼ぶ。
「名を付けるのだな」
礫母が言い、私が答える前に、彼女は砂に指で一字を書いた。〈譜〉。
私はうなずき、砂の隣にもう一字を書いた。〈塩〉。
「塩線譜」
口にしてしまうと、胸の内で何かが静かになった。名は走る。走った名は、誰かの足を縛る。だから書き付けに、私は小さく続けた。〈薄いまま、重ねよ〉。
夜が来る。杭の鳴りは増す。部屋に戻る道で、私は自分の骨に問い直した。三つの息でよいか。欠けの跳躍は許すか。返しはどれほど薄くするか。答えは揃わない。揃わないまま、私は薄板の布をめくり、匙を一滴、角に置いた。音は小さく、しかし昨日と同じではなかった。
同じではない同じ。その違いの中に、私たちは読む。
欠けを抱いたまま、わたしたちは読む。
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