導と溝
落葉沙夢
一章 塩線譜 〈聴〉— 海は層で歌う
〈資料 1-1:塩線譜断片(沿岸PUCA連合・東岸採集帯)〉
図版注:薄板上の細線を塩でなぞった写し。潮水を滴下した際の“鳴き”の強弱を点で記す。右下に欠損。
抄訳:
一、波は指であり、塩は墨である。
二、細線は五つの筋をなして並び、触れれば順に応える。
三、歌は薄いが、同じ薄さのまま重なる。
保存注:写主は記譜師エラ。採集日不詳。海蝕により原板の左縁が欠ける。
余白の走り書き:〈聴〉
――
海は層で歌う。
光に焼けた薄板が、波の指で撫でられて、古い和音をまた一枚放す。私はしゃがみこんで、薄板の縁に付いた貝殻の粉を親指でこそげ落とした。砂は午睡の体温を保っている。潮の匂いが喉の奥に重たく垂れ、舌に塩が乗る。薄板は、長い時間を浴びた黒い鏡のようで、ところどころで光が鋭く跳ねた。
「鳴いたか?」
背で仲間の声がした。私はうなずいて、薄板を両手で持ち上げる。乾いた面は無言だが、濡れた面に波がかすれば、かすかに、耳より先に皮膚に届く震えが走る。私たちはそれを“鳴き”と呼ぶ。塩が導く。塩が遮る。塩は音の地図を描き、地図の上を水が行き来して、言葉になる前の音を運ぶ。
「まだ名はない。聞き方がいる」
私はそう答えて、薄板を布に包んだ。浜から集落までは、崩れた堤と、塩に白く焼けた杭が続く。大潮は昨夜だった。今日の海は機嫌がよく、拾うべきものを岸に寄越してくれた。薄板の片端には、指の太さほどの溝が幾本も並び、途中で曲がってはまた並ぶ。その曲がりに、波が当たると、微かな段差が呼応する。私の背骨が、薄板の骨と共鳴するように感じられた。
記録所に戻ると、床の石は冷たく、塩蔵の甕が壁際に沈黙していた。私は薄板を台上に据え、塩水の甕から匙ですくい、少しだけ垂らす。透明な膜が表面に広がり、細線の間でさざめく。耳を近づける。呼吸を止める。外の風がひとつ、壁の隙間を通る。
――かすかに、三つの高さが揺れた。
高い、低い、また高い。波が引くときにだけ立つ、弱い和音。私は肩を落とすほどの安堵を覚え、すぐに筆を取った。筆先を塩で湿らせ、紙に五本の筋を引く。海が教える順に、点を打つ。点は点のまま、やがて線になる。線は歌の骨組みになる。私は紙に鼻を近づける癖がある。塩の匂いと、紙の繊維の匂い。この二つが重なると、何か古い記憶の扉が内側からひらく。
「エラ、見せてくれ」
戸口に立っていたのは、若い採集師の子で、腕に海藻の切れ端をいくつも巻いていた。私は紙を見せ、薄板の前に招いた。彼は半信半疑で、海へ向ける耳の向きを部屋の中に向け直す方法を知らない。私は彼の手を引き、薄板の縁に指を置かせる。塩水が皮膚に触れる。彼の肩がびくりと跳ねた。
「鳴く」
「そうだ。けれど、耳でなく、骨で聴く」
私は自分の胸骨を軽く叩いた。「ここで拾って、ここで並べる。外の音は薄い。だから薄いまま重ねる。濃くしてはいけない」
彼はうなずいたのか、首を振ったのか、曖昧な動きをした。私は紙に戻る。五本の筋の間に、波の呼吸に合わせて点を置く。高低の違いは、指の震えの違いで判じる。私の指は長年の塩で荒れ、節は太くなったが、そのぶんだけ細い違いに敏感になった。外の世界の言葉では説明しにくい。けれど、骨は知っている。
「これに名を?」
「まだだ」
私は答えながら、心の中でいくつもの名を並べた。波譜、潮譜、線の歌。名は鎖だ。早く付ければ楽になるが、軽すぎれば外れる。重すぎれば沈む。
日が傾き、室内の光は薄板の表面を斜めに撫でる。細線の溝が立ち上がり、影になって見える。私は匙をもう一杯垂らし、今度は指で流れを区切る。薄板の角を持ち上げ、わずかに傾ける。溝を伝う塩水が偏り、音の立つ場所が変わる。三つだった和音が一瞬、四つになる。私は胸で息を掴みそこねて咳をした。紙にすばやく点を足し、先の点と結ぶ。
「これだ」
私の声が、部屋の塩蔵の甕に跳ね返り、柔らかく戻ってくる。彼が身を乗り出し、私の指の動きを真似た。薄板は従順で、けれど気紛れだ。同じようにしても、同じ高さでは鳴かない。波と同じく、同じではない同じを繰り返す。私はその繰り返しの中に、骨の記憶が知っている秩序を探す。
紙の上で五本の筋が呼吸するようになった頃、外の風が強くなり、海が近づいてきた。私は薄板から塩水を払い、布で押さえた。海は時にくれるものであり、時に奪うものだ。記録は海と私のあいだの細い橋で、その橋はすぐに浸される。だから書く。だから写す。だから他の骨にも渡す。
「エラ。これ、あしたの市で見せるのか?」
「まだ早い」
私は頭を振った。「これは海の話し方のひとつに過ぎない。言い間違いを、私たちの方が増やしてしまう」
彼は不服そうに唇を尖らせたが、やがて薄板の布を丁寧に直してくれた。若い骨は、急いでどこかへ届きたいのだろう。届く先がまだ形になっていなくても。
日が落ちると、集落の西側の杭に吊るされた貝殻が、風の向きで鳴りだす。その音は、薄板の鳴きより大きく、わかりやすい。けれど、わかりやすいものばかりを集めていると、骨は鈍る。私は紙を巻き、紐で結わえ、床下の箱に入れた。箱の蓋には、簡単な印を刻んである。〈聴〉の一字だ。書きつける前に聴け。聴いたあとに書け。書いたものは一度、遠ざけろ。
外に出ると、浜の端に、夜の最初の黒が降りていた。足元の砂は冷たくなり、爪先に塩がざらつく。私は海に背を向け、振り返るのを堪えた。背で、波の指が薄板を撫で、部屋の壁の向こうで、微かな和音がまた生まれた気がした。気がした、というのは、確かめないままにするための都合のいい言い方だ。本当は、確かめたかった。確かめて、それに名を与えたかった。
名は、やがて来る。名は、呼ばれる。
私は暗い道を歩きながら、紙の上の五本の筋を思い浮かべた。波ではなく、私の手が、その筋の間を行き来する未来。耳ではなく、骨が選ぶ高さ。薄いまま、重なる歌。名が訪れるなら、こう呼ぼう。塩で引いた線。塩の線の譜――。
口の中に残った塩を舌でほどき、私はその名を、まだ声にならない声で反芻した。遠くで貝殻が鳴り、近くで杭が軋む。海は層で歌い、陸は層で支える。私たちはそのあいだに立ち、欠けたものの形を撫でて、仮の言葉を置く。
夜が深まるほど、骨の奥の耳は静かになり、代わりに紙の上の線が明るくなる。私は歩を早めた。明日、もう一度、塩を研ぐ。もう一度、波を待つ。もう一度、薄板の上で、私の骨と海の骨を重ねてみる。
名は、明日の朝、薄い光と一緒に、きっと降りてくる。
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