ハエ叩きと十匹の子

@kwankichi

1話完結

昨日から、一匹の大きい何かが部屋を飛び回っていた。

銀色に光を反射させ、ブブンとうるさい羽音を撒き散らす忌々しい大きなハエだ。

蝉の声と混じり合い、狭い六畳の部屋は真夏の熱気と不快な音で満ちていた。


俺は一晩中、あの羽音に悩まされていた。寝ても覚めても耳元をかすめるように飛び、壁にぶつかっては跳ね返り、またこちらへ向かってくる。

もはや執念すら感じた。


猛暑の只中、ようやくその時が来た。

殺虫剤を少し噴きかけておいたのがようやく効いてきた。ヤツは弱ったようにふらつき、俺のお気に入り茶葉を保管している段ボールの内側へ逃げ込んだ。

薄茶色の段ボール。開きかけの隙間から、ハエの足が見え隠れしている。

ブブッ、と小さな音。中で瀕死のさなか羽を動かしながら、外へ出ようとしているのだ。


俺はハエ叩きを握りしめ、息を潜めた。

段ボールの内側でバタつく黒い影が、じりじりと出口に近づいてくる。

ついに光を求めて、銀色の頭が隙間から現れた瞬間——。


振り抜いた。

段ボールの縁がギロチンの刃のように働き、ハエの体は真っ二つになった。

ハエ叩きの表面に、頭と脚だけがぴたりと張り付き、光を失った複眼がこちらを凝視しているように見えた。

と、いうことは—だ。

胴体は弾き飛ばされたはず。どちらを本体と呼ぶべきかわからないが本体はどこだ?

段ボールの中に落ち込んだ?ハエ叩きに擦り潰された?もしくは、、段ボールの外側に落ちたか?

共感できると思うがどこにあるかわからない空身を探す作業はかなり気を使う。不用意に動けば踏みつけてしまう恐れがある。気づけば腕には密集したてんとう虫のような大粒の汗が染み出ていた。


ようやくみつけた。

片割れは八十センチは離れた食器棚のガラスにへばりついている。我ながら振るった力の強大さに驚きつつ、誇らしくもある。


そこからが奇妙だった。

ガラスに張り付いたドス黒い空身は、まだ小さく動いていた。

よく見ると——ちぎれた腹のあたりから、それが蠢き出していたのだ。


ひとつ、ふたつ、みっつ。

白く細い管のような体が次々と押し出され、十匹ほどの幼虫が我先にと這い出していく。

段ボールの隙間から外界へ踏み出したハエと同じように、彼らは出口を探している。

まるで暗い洞窟から追い出されたコウモリの群れのような勢いだ。


動かない腹部の上をのたうち、滴るように床へ落ちていこうとする幼虫たち。

乳白色の軟体が光を反射しながら進む。


俺は迷わずゴミ箱に叩き込み、蓋を閉めた。

蓋を閉める音が「終わり」を告げた。


窓の外では、蝉が最後の力を振り絞るように鳴いている。

だが部屋の中にはまだ、羽音の残響が耳の奥に残っていた。

そして俺はふと思う。

——あの蠅は本当に、一匹だけだったのだろうか。


八月二五日。これは本当に私の夏の思い出だ

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