第1話 親切なおせっかいと勇気の一歩
『書斎カフェ・追憶』での私の仕事は、想像していたよりもずっと静かで、そして不思議なものだった。
マスターに教わった通り、ネルドリップで一滴一滴、慈しむようにコーヒーを淹れる。豆がお湯を含んでふっくらと膨らむ様子は、まるで呼吸をしているかのようだ。店内に満ちる芳醇な香りは、ささくれ立っていた私の心を、薄紙を一枚ずつ重ねるように優しく包んでくれた。
働き始めて三日目の午後。外は昨日までの雨が嘘のような、抜けるような青空が広がっていた。窓から差し込む西日が、本棚に並ぶ無数の背表紙を金色に照らし、埃をきらきらと踊らせている。穏やかな時間だった。
その時、積み上げたカップの列に、私の肘がことり、と軽く触れた。
ガシャン!
甲高い音が店内に響き渡る。一番上にあったカップが一つ、床に落ちて無残な白い破片と化した。血の気が、さあっと引いていく。
「も、申し訳ありません!」
「おっと、大丈夫かい、ミサキさん。怪我はなかったかな?」
駆け寄ってきたマスターは、私の失態を咎めるでもなく、まず私の手を気遣ってくれた。その優しさが、かえって胸に突き刺さる。役に立ちたいのに、いつも空回りして、結局は迷惑をかけるだけ。
そんな私の様子を見てか、マスターはくすりと小さく笑った。
「僕なんて、開店したての頃はもっとひどかったよ。緊張でコーヒー豆を床一面にぶちまけてしまってね。お客様が来る前に、泣きそうになりながら一粒ずつ拾ったものさ」
穏やかな声で語られた失敗談に、私は顔を上げた。マスターにも、そんな過去があったなんて。
「誰だって、最初から完璧にはできない。大切なのは、失敗から何を学ぶかだからね」
そう言って微笑むマスターの目には、深い温かみがあった。少しだけ心が軽くなった、その時だった。
カラン、とドアベルが少しだけ躊躇いがちな音を立てた。
そこに立っていたのは、私と同じくらいの歳の女性だった。その装いとは裏腹に、彼女の表情は、今にも泣き出しそうな梅雨空のように重く沈んでいた。
マスターの穏やかな声に促され、彼女は窓際の席に力なく腰を下ろした。その瞬間、窓から差し込んでいた陽光がふっと翳り、店内の空気が心なしかひんやりと湿ったように感じられた。
女性は、テーブルの木目を指でなぞりながら、ぽつりと呟いた。
「……楽しかった、あの頃に、戻れたらいいのに。親に反対されて絵を諦める前の、ただ親友と笑い合って、無心に描いていられたあの頃に…」
その声はあまりにも小さく、けれど私の胸には鋭い棘のように突き刺さった。さっきカップを割った失敗を取り返したい、今度こそ誰かの役に立ちたい。そんな焦りが、私の背中を押した。
その時、マスターが「少し豆の様子を見てきます」と、店の奥にある焙煎室へと姿を消した。
「あの……!」
私は意を決して、壁一面の本棚の前に立った。数多の背表紙の中から、一冊の本を直感で選び出した。淡い桜色の革で装丁され、金の箔押しで小鳥が描かれた、小さな詩集だった。
「お客様の気持ち、すごく分かります。でも、きっと大丈夫です! これを……」
善意だった。百パーセントの、純粋な善意だったはずだ。
私が本をテーブルに置くと、彼女は戸惑ったように私と本を交互に見た後、恐る恐るその桜色の表紙に指を触れた。
次の瞬間だった。それまで店内に穏やかに流れていたクラシック音楽が、ぶつりと途絶えた。
「あ……ああ……っ」
彼女の表情が、驚愕から絶望へと変わっていく。
「やめて……! 思い出したくない……! こんなの、あんまりだわ……!」
叫び声と共に、彼女は本を突き飛ばし、そのまま店を飛び出していってしまった。
カラン、と空しく響くドアベルの音。床に落ちた桜色の詩集。そして、薄闇の中に立ち尽くす、私。
「……ミサキさん」
いつの間にか戻っていたマスターが、私の隣に静かに立っていた。
「楽しかった記憶は、それを失った者にとっては、時に猛毒になる。幸せであればあったほど、現在の不幸を色濃く浮き彫りににしてしまうからね」
「……ごめんなさい。私、あの方を元気づけたくて……良かれと、思って……」
「その気持ちは、とても尊いものです。けれどね、ミサキさん」マスターは私の目を見て、静かに告げた。
「彼女の心の道を、君が代わりに歩むことはできない。それは、彼女自身の課題だからです。君はただ、彼女の道を照らす灯りになればいい」
課題の、分離。
大学の授業で聞いた、無味乾燥な専門用語。けれど今、マスターの口から発せられたその言葉は、雷鳴のように私の心を貫いた。私は彼女を助けたかったんじゃない。カップを割った失敗を取り返して、役に立たない自分を慰めたかっただけだ。それは彼女のためではなく、徹頭徹尾、私自身のための、独りよがりな親切だったのだ。
涙が、後から後から溢れてきた。
◇◇◇
数日後、あの日の彼女が、再び店のドアを開けた。
私は咄嗟にカウンターの影に隠れそうになったが、マスターの静かな視線に促され、その場に留まった。
彼女は、驚くほど晴れやかな顔をしていた。
「この間は、ごめんなさい。……でもね、ありがとう」
「……え?」
「あの本のおかげで、目が覚めたの。いつまでも過去の思い出に浸って、今の自分から逃げてるだけじゃダメだって。辛いけど、ちゃんと現実を見なきゃって思えたから」
マスターは何も言わず、今度こそ彼自身が選んだ一冊の本を、彼女の前に置いた。それは、何の変哲もない、緑の表紙のスケッチブックだった。
彼女はそっとスケッチブックを開き、鉛筆を手に取った。窓から差し込む黄昏の光の中、彼女の指先が軽やかに動き、若葉のような木々が風にそよぐ絵がページに広がっていく。
やがて顔を上げた彼女の目には、決意の光が宿っていた。
「私、もう一度、絵を描いてみます。これ、置いていきます。誰かのために、いつか役立つなら」
彼女は微笑み、描き終えたスケッチブックをマスターに手渡した。
「ありがとうございます」と微笑んで店を出ていく彼女の背中は、数日前の彼女とは別人のように、軽やかで力強かった。
私は、彼女のために新しいコーヒーを淹れる。今度は、余計なことは何も考えない。ただ、目の前の一杯が、これから新しい一歩を踏み出す彼女の心を、ほんの少しでも温めることができますようにと、それだけを願って。
お節介でもなく、自己満足でもない。ただ、自分の役割を、心を込めて全うする。
それが、この不思議な喫茶店で私が見つけた、最初の答えであり、私の、勇気の一歩なんだと、心から確信した。
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