黄昏に追憶の物語を
W.I.Z.【ウィズ】
プロローグ
今日の最終面接も、やっぱりダメだった。
「わ、わたくし、葉山美咲と申します!この度は、き、貴重なお時間をいただき、ありがとうございます!」
緊張で派手に言葉を噛んだのが、運の尽きだったのかもしれない。にこやかだったはずの役員の眉が、ほんのわずかにピクリと動いたのを、私は見逃さなかった。その後も焦れば焦るほど空回り、出されたお茶のカップを倒しかけて慌てて手を引っ込め、その勢いで机の角に膝をぶつけた。静かな役員室に、鈍い音が虚しく響いた。
大学を卒業してから、もう何十社目だろう。過去の失敗が次から次へと思い出され、まるで「お前は社会に必要ない」という証明写真を何枚も見せつけられている気分だった。
ビルを出ると、いつの間にか空は分厚い灰色の雲に覆われ、冷たい雨が降り始めていた。傘なんて、持っていない。もうどうでもいいや、という気持ちで、私は力なく街を歩き始めた。
バッグの中でスマートフォンが震える。きっと、さっきの会社からだ。恐る恐る取り出して画面を点灯させると、案の定、受信トレイには新しいメールが一通。タイトルだけで、内容のすべてが分かってしまう。
『最終選考結果のご連絡』
吸い寄せられるように指でタップした瞬間、雨で滑った手が、ツルリとスマホを取り落とした。
「あっ!」
アスファルトに叩きつけられたスマートフォンが、乾いた、嫌な音を立てる。慌てて拾い上げると、画面には蜘蛛の巣のような無数のひびが、無慈悲に広がっていた。そして、そのひび割れた画面の向こう側で、私宛てのメッセージが、冷たく光っている。
『誠に残念ながら、今回はご期待に沿いかねる結果となりました』
ひび割れた画面。砕け散った私の心。まるで、今の私そのものみたいだった。
「……っ!」
堪えていた何かが、ぷつりと切れる。視界が急速に滲んで、ひび割れた画面に映る自分の顔がぐにゃりと歪んだ。雨粒なのか涙なのか、もう分からない雫が、頬を伝って次から次へと流れ落ちる。
『今後のご活躍を心よりお祈り申し上げます』という言葉が、「あなたなんて何の価値もない」という宣告に聞こえた。
もう、どこにも私の居場所なんてないんだ。
涙と雨で前が見えない。ただ雨宿りできる場所はないかと顔を上げた、その時だった。今まで何度も通ったはずの、駅前の雑居ビルが立ち並ぶ路地裏。その奥に、まるで霧の中から浮かび上がったかのように、一つの灯りが見えた。
蔦の絡まるレンガの壁。深い森の色をした木製のドア。その上には、真鍮のプレートでこう書かれている。
『書斎カフェ・追憶』
ガラス窓から漏れるオレンジ色の温かい光が、まるで「大丈夫、ここへおいで」と、優しく手招きしているように見えて。何かに吸い寄せられるように、私は重いドアに手をかけた。
カラン、とドアベルが澄んだ音を立てる。
一歩足を踏み入れた瞬間、木の床が小さくきしみ、外の冷たい雨の世界が嘘のように遠ざかった。店内は、驚くほど静かで、温かい。磨き上げられた
「いらっしゃいませ。どうぞ、お好きな席へ」
カウンターの奥から、穏やかな声がした。マスターの眼差しは、私のずぶ濡れの格好や、泣きはらした目を咎めるでもなく、ただ静かに受け入れてくれているようだった。
促されるままカウンターの隅に腰を下ろすと、彼は静かにお冷やと、温かいおしぼりを差し出した。
「……あのっ!」
自分でも驚くほどの声が出た。マスターは少しだけ目を見開いた後、再び優しい眼差しで私を見る。衝動だった。でも、心の底からの叫びだった。この温かい場所から、もう一歩も外に出たくなかった。
「私、どこにも受からなくて、もう、どうしようもないんです!ここで、雇ってください!」
必死に頭を下げる私に、マスターはくすり、と小さく笑った。
「……ふふ。分かりました。ずぶ濡れのお客様を、このままお返しするわけにもいきませんからね。まずは、温かいコーヒーでもいかがです? お話は、それからにしましょう」
その言葉が、なぜだか神様の声のように聞こえた。
◇◇◇
その日の午後、店のドアベルが少し慌ただしい音を立てた。
入ってきたのは、いかにも追い詰められた顔つきの若いサラリーマンだった。彼が席に着いた瞬間、店内のランプの光が、ほんのわずかに揺らめいた気がした。
「……大事な日かい?」
マスターが、いつもの穏やかな口調で尋ねた。
「……はい。会社の命運がかかった、プレゼンが。もう、ダメです。過去の失敗がフラッシュバックして、緊張で頭が真っ白で…」
彼は、これから起こるであろう失敗を、まるで見てきたかのように語った。
マスターは静かに頷き、こう問いかけた。
「『また失敗する』と決めておけば、もし本当に失敗しても、『やっぱりな』と傷つかずに済みますからね。それは、ある意味で賢明なことです。……ですが、あなたは本当は、どうなりたいのですか?」
「え……?」
サラリーマンは虚を突かれたように顔を上げた。マスターはそれ以上は何も言わず、おもむろに立ち上がり、書棚から落ち着いた紺色の
サラリーマンは、まるでそれが当然であるかのように、その本にそっと手を触れた。
次の瞬間、信じられない光景を私は目の当たりにした。彼の表情が刻一刻と変わっていくのだ。固くつむられた目が驚きに見開かれ、やがて安堵のため息が漏れる。口元には自信に満ちた笑みが浮かび、猫背だった背筋がすっと伸びていく。
やがて、彼は憑き物が落ちたような晴れやかな顔で立ち上がった。
「ありがとうございます。…今度こそ、クライアントの信頼を取り戻しに行ってきます」
入ってきた時とは別人のような、力強い足取り。彼が去った後、先ほどまで揺らいで見えたランプの光は、確かな明るさを取り戻していた。
呆然と立ち尽くす私に、マスターは空になったカップを拭きながら、静かに言った。
「過去にどんな失敗があったとしても、これからどうするかを決めるのは、いつだって自分自身です。ここは、そのための勇気をほんの少しだけ思い出せるように、お手伝いするだけの場所なんですよ」
その声は、やはりどこまでも穏やかで。
私の、不思議な喫茶店での日々が、こうして静かに幕を開けたのだった。
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