六文銭

俺は、別になんにも変わっちゃいなかった。


慎作さんのいない家でも俺は淡々と飯を食って、シャワーを浴びて、翌朝はちゃんと学校に行けた。バイトも行けた。しっかり眠ったし、しっかり起きた。


俺ってこんなに薄情だったのだろうか。


けれど、胸の内に空いた穴が、そう、殴られてできた凹みのようななにかが、ずっとぼんやり痛い。正直、頭もそんなに上手く回ってない。ずっとなんでだろう、なんで俺はあそこで止められなかったんだろう、と考えてて、でも慎作さんは「仕方ない」と言った。ぐるぐる、ぐるぐる、同じことを考えてる。ああすれば良かった、こうすれば良かった。ずっと生きてるのに生きてないみたいな日々が、三日目で、とうとう限界になった。



ひとりで夕飯を食べてる時だった。パスタをヤケクソの量茹でて、あたためたソースかけただけのやつ。突然涙が出てきて、止まらなくなって、もうどうにもならなくなった。


「う、うぅ、ぐ、あ、ああ」


とうとう俺は、声上げて泣いた。こないだ慎作さんの喘ぎ声がうるさくて隣に怒られたばっかりなのに、でっかい唸り声をあげて泣いた。


「うわぁああ、ああ゛ッ……!!」


畳に拳叩きつけて、ほんとドラマみたいに泣いた。ちゃんと悔しい時って、ほんとにこうなるんだ。どこか呆然と眺めてる俺がいて、ああ、慎作さんって十年くらいずっとこうだったんだなあ、と分かってしまった。


慎作さんはあの最後の抱擁で、俺にちゃんと伝えてくれた。お前は何も悪くない、って言ってくれた。じゃあ慎作さんも悪くないじゃん。慎作さんだってまだここにいる権利があったはずだ。実家になんて、あんな訳の分からないお母さんの元になんて、帰る必要ない。慎作さんは慎作さんの生きたいところで生きればいい。なのに、それを、守ってあげられなかった。俺は何もできなかった。慎作さんになにかしてあげられたつもりでいた、ずっと。全部大間違いだ。あの時守ってあげられなかったことで、全部台無しだ。なんで俺は、分からなかったんだろう。分かってたのに、動けなかったんだろう。今俺は、何をすれば、今からできること、なにもないのかな。なにも。


はーっ、はーっ、はーっ、と息を切らして畳の上に寝転がった。天井のシミを数えて心を落ち着けてみた。でも冴えた考えなんて出てこなくて、どうしたらいいかは何も分からなかった。


ああ、こんな時、兄ならどうするんだろう。


久々に頭に浮かんできた思考に、必死にしがみつく。最近は兄と自分を比べること、やめてたな。けど、兄なら?正しくてスマートで、賢い兄ならどうする?諦めて手を引く?いや、あの人はそんな薄情な男じゃない。誰にだって優しくて、いつも沢山の友達に囲まれてて。


きっと兄なら、正しい答えがわかる。

だって、あの人は正しい男だから。灰色の俺と違って、真っ白に光る男だから。


呼出音を聞きながらぼんやり思う。兄に電話をしたことなんて、専門学校合格した時、報告程度だけだったっけ。毎年正月には顔を合わせたけど、兄が家を出てからは、そんなに話もしていなかった気がする。


「……聡介っ」

『慧介?どうした、急に。兄貴の声が聞きたくなった?』

「……うん」

『…………そーか、そっか。慧介は頑張り屋だもんな、俺は知ってるよ。どうした、なんかあったか。なんでも兄貴に話しな、今たまたま手隙だから。これ逃すとチャンスないぜ?』

「まじか」

『大マジ。実は忙しいんだよ、俺』

「……知ってるし」


あれ。俺の兄って、こんなに話しやすかったっけ。こんなんだったっけ。


『ん。さ、話してみ。』

「あのね、聡介」

『うん』

「ええと……結構、ややこしい話なんだけど……」


どこから説明したらいいか分からなくて口ごもっていると、兄は小さくええと、と言って俺の思考を遮った。


『結論から言うと慧介は……困ってる?迷ってる?』

「…………迷ってる。どうするべきか」

『オッケ、人生相談ね。任しとき。』

「……ありがと」

『うん。あれ?恋愛絡みだったりする?それとも学校?』

「学校は……大丈夫。この前も資格試験受けてきたし…………うん、恋愛、かな、うん。恋愛」

『ほぉ〜〜なるほどね。あれ?今年の正月言ってた彼女?』

「……ううん、あの子とは別れた」

『おお、ご愁傷さま。で、別の人と付き合ってて、困っちゃったと』

「うん……」

『うんうん、大丈夫大丈夫。どうした?喧嘩しちゃった?』

「……あのね、一緒に、住んでたんだよ」

『ほう。いきなりだな。それで?』

「一昨日まで、一緒に住んでたんだけど、連れていかれちゃって」

『……そりゃ大変だ。誰に?お前の知ってる人?』

「……相手のお母さん」

『お母さん?!親御さんってこと?相手何歳?』

「二十六歳……の、男の人」

『…………あー、はいはい、うん、なるほど』


聡介は何も突っ込まずに、淡々と声のトーンを落として呟いた。あ、そうなんだ、と思った。聡介はちゃんと話を聞いてくれる。ちゃんとこの出来事の異常さを分かってくれる。


『…………んー、あー、ちょっといい?一旦整理させて。お前は二十六歳の男と……まあ知らないけどとにかく一緒に住んでた。仲良し。恋愛感情も含めて。だけど突然!相手の親御さんがやって来て、彼を連れ去ってしまった。慧介はそれからひとりで、三日くらい考えてた。間違ってたら言って』

「……全部合ってる」

『そっか。よし、ありがとう。慧介は今彼がどこにいるのか、親御さんがどこに行ったのかは分かるの?』

「…………多分、北海道。地下通路があるのは札幌?」

『札幌』

「じゃあ、そこ。具体的な住所は、わかんない」

『…………ひとつ聞くけど、慧介はさ、追っかけてどうすんの』

「なんで追っかけたいって分かるの」

『そりゃあ……慧介の兄貴だから』

「……そっか。兄貴だったら、追っかける?」

『俺だったら追っかけて、親御さんなんとか説得するよ』

「だよね」

『でも慧介はどうしたいわけ?』

「……」


暫く黙り込んでしまう。兄の時間も無限じゃないのに。けど、どうしたいんだろう。連れ戻したところで、というか連れ戻せるのか。僕は。


「……聡介、あのね」

『うん』

「全然、話、通じなかったんだ。慎作さん……彼の、親御さん、もうなんか、何言ってもダメで……怒らないでほしいんだけど、人間の言葉通じないみたいな。日本語で話してるのに。僕、怖くて、なんもできなくて。なんでなんも、できなかったのかなあって、僕は」


少しまた涙がこぼれそうになってしまった。聡介だったら、こんな情けないことにならないだろうに。きっと説得して見せただろうに。でも聡介は、たっぷり思い悩んでから、落ち着いて返事をくれた。


『…………当たり前でしょ。マジでねぇ、そういう人ってお前はまだそんな見たことないかもしんないけど、思ってるよりいっぱいいるよ。救急外来とかはもう、マジで笑っちゃうくらいいる。そこで俺ら医者とかはまあギリ耐えって感じで対応してるけど、みんな怖〜って思ってるよ。歳食ったおじさんでもそう。まだ学生の、実習もしてないお前がそんな突然来た知らないおばさん怖くてなんもできないの、当たり前』

「…………ほんと?」

『兄貴がお前に嘘ついたことある?』

「……ない」

『ないだろ。うん、でも……怖いよな。ほんとは俺が一緒に行ってやりたいよ?でも、行けない。だからこそ、それでも行くなら、ちゃんと考えて。スマホで緊急通報するやり方とかも覚えて。そういうレベルで用意して対策して、そこまでしてお前は何をしたいのかまで考える。できなくないでしょ?慧介は賢いでしょ。』

「……できなくない」

『うん。あとさ、ひとつ言っとくけど。二十六歳の母親なんて四十五歳は超えてる。いざとなったら、お前はもう大人の男なんだから、力で止められるよ。その覚悟ある?』

「…………うん 」

『……いい男になったな。あのさ、慧介』

「うん」

『慧介は昔から優しい子だったし、たぶんできればやりたくないこと、やるべきじゃないと思ってること沢山あると思うけど』

「……うん」

『世の中さ、案外綺麗事で解決できないことってあるから』

「…………分かってるよ」

『あんまり自分を責めるなって、言いたかったの、俺は』

「うん、大丈夫」

『……もしかして、もう大丈夫?』

「うん」

『…………あんなこと言っといてなんだけど、俺は慧介にできれば危険な目にあってほしくない。お前の安全第一だよ…………でも、後悔して生きる方が、慧介にとっては嫌だよな。筋の通らないこと嫌いだもんな』

「…………うん、そうだよ、そうなんだよ、聡介」

『分かってる。慧介、お前がちゃんと後悔しないように生きて、ちゃんと立派な臨床工学技士になってこっちに帰って来るの、待ってる』

「うん。ありがとう、聡介。ごめんね、忙しいのに」

『んーん。電話はすぐ出れないかもしんないけど、いつでもLINEしてくれていいから。慧介、俺も、母さんも父さんも、お前が大好きで、お前の命が一番大事だよ。おやすみ』

「……おやすみ」

『ちゃんと寝ろよ』

「うん」


そうして、電話は切れた。




俺はただ黙って、静かにスマホを操作した。SNSを開いて、慎作さんのアカウントを見た。


『しばらく実家に帰る』


最新の投稿はその一言と一緒に、空港の写真が載せられていた。


北海道かあ。

札幌、東京、飛行機で調べた。羽田空港から新千歳空港、思ったより安かった。飛行機って五万十万ぐらいする高級移動機関だと思ってた。親に頼まなくてもバイト代でなんとかなりそうだった。


家から電車に乗って、空港まで行って。具体的に考える。行ってどうする?慎作さんがこれまで話してくれた実家の周りの風景を徹底的に思い出して探せば、実家の場所くらい分かるんじゃないか。分かってどうする?

……無理やりにでも逃げ出そう。あんな人ほっといて、隙を見て慎作さんを攫ってしまおう。向き合うこと自体を諦めればいい。そして、慎作さんに、聞こう。あの人のいない所で。ほんとは、どこで生きたいのか。


布団を敷いて、やっぱり慎作さんの分だけ広い感覚が寂しくなって、またちょっと泣いた。

早く会いたい。近日中、いや明日行こう。布団の中でスマホを弄って、ネットからチケットを取った。運良く空席があった。



行こう。

慎作さんの故郷、北へ。

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