獣の檻

思えば遠く来たもんだ。


俺の実家は北海道・札幌すすきのからバス・車で二十数分のところに薄らぼんやり立っている。たしか元々は母方の祖父の家だった。最初は祖父と父と母と俺で暮らしていて、俺がまだ幼い、物心つくかつかないかの頃に雪下ろし中の事故で祖父が亡くなった。それから父と母は、どっちがあの家の主なのかで言い争うようになったんだっけ。


「サクちゃん、どうしたの、写真なんかそんなに撮って」

「ママ、ごめん。あんまりいろいろ変わってるもんだからさ」

「別にいいけど」


これ以上は控えた方がいいときの「別にいいけど」だな。やめとくか。すごすごとスマホを仕舞った。


「サクちゃんはさあ、男の子が好きなの?」

「……んや、違うよ。俺は女の人も男の人も好き。あんなガキは好みじゃない」

「オンナが嫌になった訳じゃないんだぁ」

「まあね。ママの知らない間に俺も勝手に、大人になったよ」

「でもサクちゃんはママの味方だもんね?」

「そりゃ……そうだよ。世界で一人だけのママ」


ママの車の助手席は酷く気分が悪い。そもそも年季の入った軽自動車の全体にヤニの臭いが染み付いていて、喫煙者になった今でさえうっとくるのに、さらに車内芳香剤を吊るしているのでもうめちゃくちゃだ。ママが寒い寒いとちくちく喚いても、俺は窓を開けて遠くを見ていることしか出来なかった。


「サクちゃんはさ、自分がいなくなったあとのママのことは興味無いの?心配じゃなかったの?」

「まさか。元気にやってるか心配ぐらいしてたよ。あんまり忙しかったもんだから連絡の一つもよこせなかっただけ。悪い息子でごめんね」

「そんなことないよ。サクちゃんはいつまでもママのいちばん、たった一人の息子だもん」


たった一人の息子ねぇ、と苦笑する。


「ママさぁ?サクちゃんがいなくなったあと、結構すぐに離婚したんだよ。だから今日おうちに帰ってもパパは居ない。あの男は出ていったの、勝手に」

「ふうん、だと思った」

「大変だったんだから、もう。その後はさ、ママ……サクちゃんのこと、ずっと見てたよ」

「え」

「サクちゃんがネットで活躍すんの、ずっと見てた。見てるだけじゃだめだー、ママはママの人生を送ろう、と思っていろんな男の人と付き合ってみたりもしたけど、やっぱり私はサクちゃんのママだからさ」

「そっか」

「やり直しだね、これから。あのおうちでやり直そうね」

「……そっか。ママはそのつもりだったんだね」

「うん、もちろん。さあ着いた着いた、ママ車停めるから先荷物持って家入ってて」

「……はい」


じゃら、と手渡されたのは九年だか十年だかぶりに握る実家の鍵。あ、そういや財布に慧介の家の鍵を入れたままだ。すまん、慧介。ちゃんとどっかで然るべき処置をして捨てればよかった。ママに見つからないようにちゃんとしまっておくから。


トランクからママのキャリーケースを出して、玄関まで運んで行く道すがら思う。全然気づかなかったけど、妙にチンポジが安定しねぇ。ああ、慧介の下着と取り違えたまま俺帰ってきちゃったのか。だからやたら緩いわけだ。


あーあ、俺、慧介の家からいろいろ持ってきちゃった。

全部置いてきたつもりだったのに。買ってもらったもの、なにもかも。




「でさあ?サクちゃん」

「うん」


ママのおはなしマシンガンは留まるところを知らない。相変わらずの危うい手つきで野菜を切って、グツグツ煮込んで、ポトフを作りながら、なお話し続けている。ポトフなあ、昔ママがタバコ吸いながら作ったせいで灰が混入してた時からちょっと苦手なんだよな。でも一度も言ったことない。ママは俺の好物だと思ってる。


「サクちゃんがちゃんと身長の高い素敵な男の子になったのはママのお陰でしょ?あの男、見た目だけは良かったし」

「俺の見た目はだーいぶママ譲りだよ。身長は確かに、パパの遺伝かもだけど」

「ううん、ママがセノビックだのミロだのちゃんと毎日飲ませてあげてたことの方が重要でしょ?幼少期の栄養管理、ママ一生懸命気を使ってたんだから」

「そうかもね」

「サクちゃんは身体が弱かったからね、尚更よ」

「そうだったよね、ママありがとう」

「ううん、ママなんだから当たり前でしょ」


つ、疲れる。ほぼ十年ぶりだから当たり前だけど、口からはすらすらママの為の言葉が出てくるのに心がついていかない。頭はあーあーそうそうママってこんな感じ、って思い出してるのに、身体の真ん中の辺りが拒絶してて変な汗が出る。おいおいどうすんだ、この先やって行けねぇぞ。


ていうか、俺、この先ずっとこの人と一緒に暮らすしかないのか。やっと逃げ出して、散々いろんな奴の家を渡り歩いて、やっと慧介っていう男に出会えたのに、またママの慰み者として暮らしていくのか。俺もう二十六だぞ。アラサー近いぞ。俺がおっさん、じいさんになるまで?


この人が死ぬまで?


「…………ママ、俺さ、東京に」

「ん?」

「…………なんでもない。食べよっか」


ああ、だめだ。もう無理だ。

俺、慧介のとこに二度と帰れない。





食事の後、久しぶりに実家の風呂に入った。慧介の家の狭くて水圧が弱くて不安定なシャワールームとラブホの風呂ばっかりだったから、シャワーの水圧が強くてビビる。


ぴこん、とLINEの通知音が鳴ってビクッと背中が跳ねる。ママの目を逃れるようにこっそりジップロックに入れて持ち込んだスマホを見ると、慧介からのメッセージだった。


『慎作さん、今どこにいるの』


一旦髪の泡を流す。手の泡も流してから、返事をした。


『実家にいる。ごめんな、びっくりしたろ』

『気遣わなくていい。俺のことは忘れて』


そう返してしんみりした気持ちになっていると、すぐ返信が来る。


『どこにいるか具体的に教えて』


ええ。なんでだよ。まあ別に俺の住む街のことぐらいいいか、と思ってぽつぽつと今日撮った写真を送る。元々慧介に聞かれた時用に撮った訳だし。


『ありがとう』

『どんなおうちにいるのかも、また手が空いたら教えて。写真でもいいから』


なんだこいつ。まあ、それくらいいいか、と思う。

今回のは失踪とかじゃないから。遠くに住むことになってしまった、それだけだから。

遠距離恋愛なんかする気もないけど、慧介は別れたつもりないみたいだし。そのうちしっかり言わなきゃな、と思う。


「サクちゃん?いつまで入ってるの?ママも一緒に入っちゃうよ?」

「……ご、ごめん!今出るから、ごめん」

「もう、サクちゃんは恥ずかしがり屋さんなんだから」


あ、そうだ。

あの人は別に、ショタコンとかじゃない。

だから、今の俺が、昔みたいに、そういう意味でも慰み者にされることって、もしかしたら。

もしかしたら。また。ママと。


それだけは嫌だ。

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