勘冴えて悔しいわ
慎作さんの話を聞いて眠った夜、僕は奇妙な夢を見た。
どう足掻いても上手く前に進めない極彩色の泥濘の中を、上裸の慎作さんはすいすい飄々と歩いていく。大袈裟に左右に揺れる背中は思っているより小さくて、肩甲骨の浮いたそのラインが翼を捥いだ後の傷跡にすら見えた。行かないでくれ。こんなとこに置いていかないでくれ。必死に手を伸ばして足を進めて、追いつかない。ついにその名を叫んだ時、慎作さんの長い黒髪の隙間から、項のタトゥーがぎょろりとこちらを見つめてくる。ただの瞳のモチーフだったはずのそれは血走っている。慎作さんは振り返ることもなく、僕が足掻く姿を見ている。
簡単に俺のことを理解できると思うなよ。
慎作さんはそう言った。そうだ、全部お話だ。全部、慎作さんの演出だ。あんな僕を寝かしつけるためだけの話だけで慎作さんのことを分かった気になっちゃ、だめなんだ。あれは慎作さんの全部じゃない!まだ好きになっちゃダメなんだ、僕が救いたいなんて思っちゃダメだったんだ!!
そう悟った瞬間、俺はハッと目を覚ました。
慎作さんはまだ死んだように眠っていたが、項のタトゥーはじっとこちらを見ている。
そうだ、今日は学校だから。行かなきゃ。寝坊かどうかギリギリのライン。急げば間に合う。急いでシンクで雑に顔を洗って、適当に服を着て、通学用のリュックを背負って玄関のドアを開ける。その音で、慎作さんは目を覚ます。
「どこいくの……」
「が、学校」
「……おう、そっか。行ってらっしゃい」
「あの、慎作さん、家にあるもん、なんでも勝手に食べていいから」
「うんうん、大丈夫、大丈夫よ」
低血圧で真っ白な顔で、慎作さんは笑ってひらひら手を振っていた。
どきどきした。寝起きの儚げな雰囲気、多分まだなんの役にも入りきれてなくて、ハスキーなちいさい声。ひらひら揺れたあの手の白いこと、指の細いこと、そしてああ、顔だ。長くて俺と同じリンスなのに柔らかい毛がうっとおしくまとわりついて、そしておぞましいほど死体みたいに美しい顔、長いまつ毛に隠れる色素の薄い瞳。
好きになっちゃダメなのに、好きになっちゃダメなのに。
「行ってらっしゃい」
あの演技の薄い掠れた一言で僕は、もうどうしようもなく、慎作さんに落ちてしまった。最悪だ!なにが恋愛かどうか分からないだ、バカ。もう好きになってしまったかも。どうしよう。どうしよう。どうしよう!
電車の中でも慎作さんのことを考えてる。学校に着いても、友達にも空返事。授業中もぼんやり。ミミズののたくったような字で書き込んだ資料、一切メモが読めない。全然頭に入ってこない。大事なことやってるのに。試験あるのに。漢字書けない。むりだ。ぼんやり頭の中に慎作さん色のモヤが拡がって、何もかもかき消していく。
慎作さん。
ダメだ。好きだ。
全部好きだ、めちゃくちゃな所も、俺に対してのふらついたお兄さんを演じてる時も、そうじゃない時も、女に化けてくれた夜も、全部好きだ!全部理解したい、なにが怖くてなにが好きなのか。どんな音楽が好き?どんな本を読んだ?ほんとはどんな食べ物が好き?もっと慎作さんを理解したい。慎作さんで満たされたい。
でもダメだ。ダメなんだ。
慎作さんと僕は違う世界の人間なんだ。
僕はショックだった、慎作さんの話が。世の中にそんな家庭があるのか、実家がちょっと気まずいどころじゃなく、安心できない場所なのってどういうことだ。こういう事だ。こんな人間になってしまうという生き証人が、俺の家にいる。消えかけの青アザを抱えて家にいる。多分また配信してる。なにかご飯は食べただろうか。慎作さんのことを、わかってあげよう助けてあげようと思う行為その物が上から目線で、いけないことで、僕に出来るわけないんだ。
僕は、恵まれた立場から慎作さんをおもしろ半分で消費しようとしていた。
慎作さんの苦しみに好奇心で触れようなんて許されるわけ、ないんだ。明日はもっと辛い過去の傷を語ってくれるのかもしれない。知っていいのか?興味本位で、慎作さんの人生を、生傷を、まるでフィクションの物語みたいに安全な位置から興味深く楽しんで、そんなのダメだ、ダメに決まってる。
でもそれをああやって、まるで俺のためのお話として聞かせられてしまう、あの危うさを孕んだ慎作さんの一人芝居が、狂おしいほど、好きだ。美しいと思った。
あの夜、真っ白の身体をくねらせて、官能的に甘く俺のために鳴いていた慎作さんが、次第に息を荒らげ、そして、なにもかも拒絶して溢れ出すように嘔吐したあの姿を、僕は射精しながら見ていた。
僕はあの真っ白な横顔とタバスコで真っ赤な嘔吐物の残酷な現場を、僕が壊した男の死に様を、美しいと思ってしまった。
僕が慎作さんと違う世界にいるから慎作さんを傷つけるんだ。正しいから傷つけるんだ。やさしくしたら傷つけるんだ。全部俺がやってること全部全部全部慎作さんにとってはどうしようもなく嫌で、苦しいんだ。ダメなんだ。僕じゃダメなんだ。
なのに、なのに、なのに、慎作さんが欲しい。
慎作さんの全てが欲しい。あなたが僕に向かってけーすけ、と囁いて笑ってくれたら、僕はあなたを救うためならなんだってしたいって気持ちにさせられる。無理だ。僕に慎作さんは救えない。なんで?なんで生きてる世界がちがうんだ。俺が慎作さんの世界に行きたい。慎作さんの世界に俺もいさせて欲しい。傷つけないよう頑張るから、嫌にならないよう頑張るから、また触れたい。この世で一等やさしくあなたを抱きたい。抱きしめて頭を撫でてあの薄い唇とキスをして、睫毛が触れ合うほどの距離で見つめ合いたい。慎作さんと手を繋いで、もう大丈夫だって言いたい。俺の全部捧げるからって言いたい、もうあなたが二度と辛い思いをしないように俺が守るからって言いたい。芝居をしてる姿も好きだ。そうじゃない姿はもっと好きだ。死なないで欲しい。もう二度とゴミ捨て場なんて所でここに居るしかないと思わないで欲しい。あなたの傷を全部知りたい。どうしたらあなたが自分のことをゴミだとか捨てられるだとか言わなくなるのか、普通のご飯の味が分かるようになるのか、やさしくされるのがイヤじゃなくなるのか、沢山考えたい。
ごめんなさい、慎作さん。ごめんなさい。
きっとあなたは俺の事嫌いなんだと思う。不快なんだと思う。きっと俺じゃ慎作さんを救えない。傷つけるだけならいい方だ、壊すかもしれない。だけど、だけど、だけど、傷ついてもう限界で、壊れかけた舞台装置が「怪談師サク」として息を吹き返すその時の慎作さんの瞳が、美しいと思った。全部俺が悪い。俺が慎作さんの過去もなにもかも咀嚼できるほどの人生経験を持ち合わせてないのが悪いのに、なのに、なのに、なのに、好きで好きでたまらない。もう全部慎作さんにあげたい。人生全部。あなたの為なら僕はマジで全部ぶっ壊れて構わない。
気がつく頃には終業のチャイムが鳴っていた。
今日の記憶、ほぼなし。授業中資料にしたメモ、相変わらず解読不可。
こんなにめちゃくちゃになるまで考える恋は、生まれて初めて堕ちた。
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