第一夜 後編

「えーん!なあボクちゃ〜ん、シャワーこれなんとかなんないの〜?」

「どうにもなりません!越してきた時から不安定なんだよ!」


シャワールームの扉の向こうで、酷く亡霊じみたシルエットが不安定な水圧にやかましく文句を言っている。


彼は幽霊嫌いの僕が拾ってきた、生きた幽霊だった。


ほんの、気の迷い。どうせ行く宛てもないんだろう、ホームレスかなんかか、訳ありか、なんならヤのつく自由業のお兄さんか。どうでもいいや。誰でもいいや。今夜だけ、誰かと喋っていないと気が狂いそうだった。


でも今はやや後悔している。ここまで変な男だとは思わなかった。

あんな狭苦しい場所で忙しなくくねくねしている真っ白の細長い身体、脱衣所もないから床に放り出された真っ黒の丸サングラス。骸骨みたいなくせに、変にやかましい男。遠目から見たらあんなに死んでるみたいだったのに。ああでも、笑っちゃうくらいなんとなく気が紛れる気がした。ユイの事なんか全然考えている暇がない。


「ボク、タオルとってぇ。もう出るぅ」

「はぁ……俺は、慧介!二ノ倉慧介。ボクじゃない!」

「おお、けんすけね。俺ァサクだよ、慎みに作品のサクでしんさく」


ガチャリ、と扉を開けた男は全裸で名前を名乗った。いや、僕がフルネーム名乗ったんだからフルで名乗れよ。そう悪態をつく前に、うっと息が詰まる。


酷いからだだ。

痩せっぽちの身体は湯を浴びた後にもかかわらず血色が一切ない。唯一血の色をしているのは、おびただしく拡がる暴行の痕だけだ。殴られてる。何度も何度も。ろくにケアされていない縫合痕もいくつかある。最低限の医療には繋がってるのかもしれないけど、継続的なケアは受けられてない。


「どした、お兄さんの身体にそんな見とれちゃって。痛そうかい?そうでもないんだなあこれが。ねーえ、身体拭きたいよ、けんすけ」

「……け・い・す・け」

「けーすけ?」

「うん……」


僕は黙ってタオルを押し付けて、背を向けた。


「おしっこも行きたいからトイレ借りるよぉ。ここで合ってるよね?」

「ああ……もう好きにして、下さい。でもトイレは“出ます”よ……」

「出ないよ。幽霊なんていないよ」


突然、彼のふわふわ浮ついた声は静かに沈んだ。


「アンタ、怪談師って言ったでしょ……?」

「うん。そうだよ。でもね、信じてない。幽霊も怪異もこの世に存在しないよ。あのねえけーすけくん」


ガチャン。トイレの鍵が閉まる。


「いちばん怖いのは、人間だからね」




トイレから出てきたあとの彼は、またビックリするくらいやかましくてうざったいスタイルにあっけなく戻った。今は丈の足りない僕の部屋着を着て、寝る支度をする僕に茶々をいれている。今すぐ放り出してやってもいいんだぞ。


「けーすけくんってメガネなのかよ!真面目くん無理してんのかい、おいおい、どうしたんだ今日は疲れちまったのかい」

「あー……そうっすね、疲れたよもう。いろいろあったんだよ今日は……」

「ふふ、俺もおんなじよ。お揃いね。けーすけくん、泣いてたでしょう。どうした?んー?何があったのか、寝る前にお兄さんに聞かせてごらん。てか、聞きたい。聞かせてよ〜。俺ァ今一文無しでねぇ、それくらいしかしてあげらんねっからさ」


一組しかない煎餅布団の上へ勝手に横たわり、やかましくくねる細長い身体。足が飛び出すのは明らかだった。じい、と見つめてくるその頬に殴られた痕、端の切れた唇。


「……俺、彼女に、フラれて」

「あらまぁ」

「は、半年付き合ってて、彼女の、ユイの言うこと、なんでも応えてあげてたのに、がんばって、僕、」

「うんうん」

「僕、つまんない、そうです。つまんない男なんだって。言われちゃって、それで……わは、はは……」

「ふふ。んー、いいじゃない?アタシもよく言われるよ、つまんないって。こっちは頑張ってんのにね。けーすけくんも頑張ってるの、アタシ分かるよ。おいで」


……あれ?

慎作さんの声、なんか変だ。

あれ?


「けーすけ。」


ゆっくり差し伸ばされる手、うっとりしてぞっとするほど白い首筋。


「おいで。来て。」


コンタクトを外してぼやけた視界が、慎作さんを捉えられなくなる。

僕の服を着ている。僕を誘うように微笑んで、括っていた濡れたままの長い黒髪を解いて、はらりと僕の家のシャンプーの匂いが鼻を掠める。


「慰めてあげようね」


腕の中に抱かれる。慎作さんが囁く。


「もう大丈夫だから」


甘ったるい、まるで女のような声で。


「アタシがきみの全部、受け止めてあげるよ」


僕が呑み込まれていく。生きた幽霊に。




僕はこの夜、初めて男を抱いてしまった。

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