第2話 岬悠(中)

嫌ならあの親子を放り出せ。


すぅ、と亡者が指をさす。

爪が全て剥げて痛々しい。


いや、それより。

あの親子とは。


そろり、とその指の先を視線で追いかける。


ああ、そういえば。

これだけの騒ぎで、どうしてあの子供はずっと母親に抱き上げられたままだったのだろう。


まだ小さい、本当に小さくて、年齢的には幼稚園児くらいの男の子。

あのくらいの子が、騒ぐどころか、ぴくりともしないのは可笑しくないか?


最初は寝ているのかと思った。

子供は自由だ。

さっきまで騒いでいたと思えば、次の瞬間糸が切れたかのように眠っている事もある。


だから、そうなのかと。


でも、おかしいじゃないか。

こんな騒ぎで、ずっと寝ていられる訳がない。


服で隠れて見えない子供の腕。

そこに、血が滲んでいた。


「……あの、」


思わず声を掛けていた。


「その子、大丈夫ですか…腕、血が…」


もしかしたら、ガラスで切ったのかも。

誰かに押されて転けたのかも。


亡者の言葉を信じたわけじゃない。


ただ、念の為。

そう、念の為だ。


店員もそれで初めて気付いたようで、子供の腕にハンカチを巻こうと触れる。

瞬間、母親が店員の手をはたき落として、触らないでと叫んだ。


ざっ、と子供を抱えたまま立ち上がると、じりと部屋の奥から徐々に扉の方に寄ってくる。


「違う、違う…この子は噛まれてない!!」


噛まれてるよ。


子供は噛まれて、もう死んでるよ。


早くしないと動き出すよ。


ぞわり、とした。


「お…お客様、落ち着いて…!」


「噛まれてない、噛まれてなんかないのよ…」


突然声を荒げた母親に店員が何とか宥めにかかるが、もう聞こえていない。


「うちの子はあんな化け物になんてならない!!」


「わ、わかった、わかったから静かにして、頼むよ」


店員だけではどうにもならぬと岬も出来るだけ刺激しないようにと声を掛ける。


なるよ。


みんなそうだった。


じきに動き出すよ。


ああ、うるさいな!


耳元でひそひそと話す亡者が鬱陶しくて、しかしこいつが何かを知っているのは明らかで。


なんだ、噛まれたらどうなるんだ。

噛まれただけでまずいのか?


ぐるぐるとそんな疑問が頭の中を回る。

いや、それよりも。


遂に母親の背に扉がぶつかる。

それに飛び付くように彼女はぐったりとしたままの子供を抱きしめたまま、鍵を開けようとする。


馬鹿、やめろ。


岬が、多少手荒でも止めようと手を伸ばす。

遅かった。


カチン、とあまりにも軽い音を立てて内鍵が開けられる。


「うちの子はあんな化け物になんかなりゃな…」


一瞬だった。


人形のようだった子供が、一瞬で母親の顔に喰らいついていた。

ブチブチと頬肉を食いちぎられて、母親が声にならない悲鳴を上げる。


岬の背後で店員が腰を抜かして座り込んだ。


頬肉を咀嚼した子供の肌の色は最早生きている人間のそれじゃなくなっていた。


扉の向こうから、内側の騒ぎで気付かれたのか、ガリガリと爪で引っ掻く音がする。


これは駄目だ。

岬は咄嗟に、母親が鍵を開けてしまった扉のノブを掴み、バンッと開く。

扉の向こうには白濁した眼球をこちらに向けて手を伸ばす化け物。

あまりの光景に身が竦みそうになるのを堪え、化け物に成り果てた子供に再度顔を囓られている母親の腕を引っ掴むと、そのまま外に押し出した。


助けを求めるように目を見開いて、ゴボゴボと血の泡を吹きながら手を伸ばして来る母親に化け物達が群がっていく。

腹を左右に裂かれて内臓を抉り出される。

髪を掴まれて、バキバキと頭皮ごと剥がされゆっくり脳が露出していく。


生きたまま、一方的に解体されていく彼女を最後まで見れる訳もなく、岬は扉を閉めた。


内鍵をかける。

耐えきれなかったのか、店員が部屋の隅で吐き戻し、咳き込んでいる声がする。


助かるためだ、仕方ない。

仕方なかった。

そう思っても、震えが止まらない。

なんて事をしてしまったんだ、俺は。


頭を抱えて蹲りたい。

あの店員のように吐き戻してしまえば、いくらか楽になるだろうか。


それより自殺してしまうのが楽だよ。


バラバラにされるよりずっとマシだよ。


いつでもいいよ、待っててあげるね。


亡者というのはいつだってそうだ。

いつも、人を苦しませて、甘言で引き込もうとする。


こいつは子供が既に手遅れであると教えてくれたし、なんならあの人の姿の化け物たちに噛まれただけで死に、更に化け物の仲間入りもしてしまうという情報もくれたから、もしかしたら、と一瞬でも揺らいだ自分が恥ずかしい。


あれは助けてくれた訳でも、ヒントをくれた訳でもない。


いかに岬たちが絶望して死ぬのか。

それが見たいだけだったのだ。


「くそったれ…!!」


泣きそうになるのを怒りに換えてどうにか保つ。


クチャクチャと物を咀嚼する気味の悪い音が、たった一枚の扉の向こうから聴こえてきた。






それから、何時間経ったのか。


ほんの少しだけ、岬は眠ってしまっていた。

疲れたから、ちょっとだけ目を閉じただけだったのだが、一瞬落ちかけていたらしい。


がたんっ、という音にハッとした。


両膝に埋めていた顔を上げて扉を見る。

破られた様子はない。

それにほっと息を吐いて、店員の様子を伺おうと振り返る。


時が止まった。


不要品をまとめるためのビニール紐が、窓の内柵に引っ掛かっている。

その下。

ピンと張られた紐の先に、あの店員が座り込んで、俯いていた。


「あ、ああ…!」


嘘だろ、待ってくれ、待って…!!


這うように店員に近寄る。


ビニール紐はグルリと細い首に食い込んでおり、ぐったりと両足を投げ出して、だらしなく半開きになった口からは唾液がだらだらと流れ、舌がでろりと覗いている。

目は血走って見開かれており、息絶えるまでかなり苦しんだのが分かる。


店員の手元にメモが開かれている。

それを手に取ると、恐らく岬に宛てた物なのだろう。

耐えられません、ごめんなさい、と震えた文字。

次のページにも何か書いてある。

めくると、もしあなたが助かったら、私の家族が無事か訪ねて欲しいと名前と住所、電話番号が記されていた。


「ふ…ざけるなよ…!…何のために俺…!!」


どうせ死ぬんだったら助けたりしなかったのに!

出かけた言葉を飲み込む。

友人達からの連絡はない、警察も救急も呼べない、扉の向こうは地獄だし、その中でたった一人しかいなかった話し相手は、うたた寝をしている間に自ら命を絶っていた。


叫びだしてしまいたい。

ふざけるなよ、ふざけるな。


くしゃり、とメモを握りつぶす。


これじゃあ、意地でも死ねなくなってしまった。

死人から託される物ほど最悪な事はない。

だって突き返せないじゃないか。


「…謝るくらいなら、もう少しくらい生きる事にしがみついて欲しかったよ」


店員は完全に絶命している。

紐を外してやろうとして、躊躇する。


さっきの子供は死んでいたのに動き出して母親を喰っていた。

店員が噛まれた様子はなかったが、もし、死んでああなるなら。

死ぬだけで化け物になる可能性があるなら。

今この紐を外す事によって更に状況が悪化するのでは、と思うと躊躇ってしまう。


何度か手を伸ばして、結局解いてやるのは諦めてしまった。

もし、彼女が化け物になっても、紐に繋がれているなら直ぐに襲われる事もないはずだ。


そして、そういえば、と思う。


あんなにうるさかった亡者の姿も消えていた。


もしかしたら、この店員を連れて逝って満足したのだろうか。

今となってはあの亡霊でも構わないから、話し相手が欲しいと思ってしまった。






窓から射し込む光はオレンジになりつつある。


あれから大分時間が経ったと思ったが、まだ夕方なのかと回らなくなってきた頭でぼんやりと思う。


スマホの充電も20%を切っており、無駄には出来ない。


もうどこからも何も聴こえない。

悲鳴も、怒声も、泣き声も、ガラスが割れる音もしない。

いよいよ誰もいなくなってしまったのだろうか。

ならば、恐らく救助も来ない。


くぅ、と腹が鳴る。


こんな状況でも腹は減るんだな、と思うと笑ってしまう。

でも、腹が減るという事は、まだ岬の身体は諦めていないという事だ。


「……なんとかしなきゃな」


夕方が過ぎれば夜が来る。

立ち上がって、扉の横にある電気のボタンをカチリ、と押す。

ぱっと明るくなる室内。

下手に灯りを付けるのはどうかと思わないでもなかったが、先ほど外にいた化け物達の目は白濁していた。

あれは視覚が死んでいると見て良いだろう。


「…一晩…一晩だけ休んで…明日になったら動かないと…」


夜の闇の中、光源もないのに動き回るのは自殺行為だ。


鍵に異常がない事を確認して、また床に座ると壁により掛かる。


そう、一晩だけ。

ひどく疲れたから、一晩だけ眠らせてくれ。

その前に。

店員に動く気配はないが、万が一がある。

店員のポケットからハンカチをそっと抜いて丸め、その口に突っ込む。

それが落ちないようにしっかり詰め込んで、ゆっくり離れる。


「ああ…参ったな」


スマホの電池残量は18パーセント。

夜には帰ると親に伝えたのに、心配かけてるだろうな。


はぁ、と溜息を吐く。


充電器、欲しいな。

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