第3話 岬悠(後)

瞼が重たくなる。


夕方から夜へ。

寝なければ体も頭も働かないから、休みたいのに、いざそうなりかけると眠れない。


横になる勇気もなくて、ずっと体育座りのままなのも良くないのだろう。

目頭を軽く揉んで、店員にちらと視線を向ける。


口にハンカチを詰め込まれたまま、首を吊っている彼女は動かない。

あれからどれだけ経ったのか。


ぽつ、と音がした。

窓に水滴が当たる音だ。


ぽつ、ぽつと音の間隔が狭くなり、その内にザァッと激しい音になる。

雨だ。

相当な土砂降り。


何の音もしなくなって数時間、久しぶりに聞くそれに岬は何だか安心したような気持ちになる。

溜息をついて壁により掛かった、その時。


「おい、ここ、明かりが付いてる」


窓の向こうから、人の声が聴こえた気がしてガバっと立ち上がる。

ずっと座っていたせいで立ち眩みを起こしかけたが、何とか留まる。


「どうする、確認するか?」


気、ではない。

誰かいる。

誰かが丁度窓の外にいて、そこで話をしている。


「っあ…あの!!」


思わず声を出していた。はっ、とした時にはもう遅い。


ばんっ!と扉が強く叩かれる。

どくん、と心臓が脈打つ。


その音は、外にいる誰かにも聞こえたようだ。


「佐倉指揮官!こちらB班…現在我々は近くに赤い看板のコンビニ…。はい。中央交差点の側ですね。そこの喫茶店の裏…そこから生存者と思しき声を確認しました。…いえ、変異種の可能性は低いかと。…了解しました。……おい!きみ聴こえるか?」


「えっ、あ、は、はい!」


ドク、ドクと心臓が脈打つ。

それにくっついて来るように、ばんばん、と扉が激しく打たれだす。


「店内はどうなっているんだ!?君のいるそこはどこだ!?」


「わかりません…!俺、何もわからなくて、ただ逃げて…ずっと…!ここ、ここはバックルーム…ああ違う…スタッフルーム、多分スタッフルームです…!」


「そうか…よく頑張ったな!」


「今さっき、俺たちの仲間に連絡をした。聞いてくれ、俺たちは今から君の安全のため、少し騒がしくしながら一旦ここを離れる。不安だろうが、君はそのまま、そこにいてくれ。いいか、部屋からは絶対に出るな。我々の仲間は扉を三回叩く。そうしたら出ておいで。大丈夫だからな」


必ず助けるから。


力強いその言葉に、岬は泣きそうになるのをぐっと耐える。


そうこうしている内に、急に外からバンッ!バンッ!と激しい破裂音が数回響いて、ぎょっとする。

あの音は知ってる。

昔やった事があった。

あれは確か、そう、癇癪玉とかいうやつだ。

夏になると花火売り場の中に小袋に数粒入って並んでいた。

思いっきり地面に叩きつけると、破裂音がする使い切りの火薬玉だ。


「ほーらこっちこい!こっちだ!」


「早く来ないとご馳走が逃げちまうぞー!!」


叫びながら、窓越しに数時間ぶりに会話した2人の声が遠ざかる。

合間に癇癪玉を鳴らしながら、元気いっぱいに叫んでいる。


気付けば、扉の向こうは静かになっていて、なんの気配もしなくなっていた。


癇癪玉と誰かの声と、足を引き摺りながら呻き歩く音。


それらが、遠く遠く。

終には何も聞こえなくなった。


怖い。

怖い、怖い怖い!


俺はどうしたらいいんだ。

このまま閉じこもっていればいい?

それとも外の様子を伺うべきか?


いや、違う。

まだ、だ。


ノック三回。

それが鳴ったら、扉を開ける。


顔も知らない、声だけしか聴けなかった他人の言葉を信用するなんて、と岬は自嘲する。

それでも今の岬には彼らに縋る他、道はないのだ。


スマホをポケットにねじ込んで、気休めにハンガーを持つ。


その時。


こつ


こつ


こつ


『だいじょうぶですかぁ』


『だいじょうぶですかぁ』


三回のノックに、優しげな女性の声。

来た、助けだ。


だが。

はっとして、岬は扉の鍵のつまみに触れた指をそっと離した。


流石に早すぎやしないか?

あれからまだ1分もたっていない。

仲間がいると言っていたから、彼らとは別の誰かが来てくれたのかもしれないと思いもしたが、岬は開けなかった。


ダメだ。

開けてはいけないと警鐘を鳴らす直感に、一歩下がる。



こつ


『だいじょうぶですかぁ』


こつ


『だいじょうぶですかぁ』


こつ、こつ


『だいじょうぶですかぁ』


こつ、こつ、こつ


『だいじょうぶですかぁ』


こつ、こつ、こつ、こつ…


『だいじょうぶですかぁ』


『あけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてーあけてー』


こつこつ、から段々とガリガリ、ドンドン

へ音が変わっていく。


違う。

こいつは、生きてる人間じゃない。


こいつは、この声は。



数時間前に、岬が室内の安全のために放り出した、息子の化け物に喰われ、群がってきた他の化け物たちに喰われた、あの母親の声だ。



『あけろ、人殺し』



ハッキリとしたその言葉に、岬は頭の先から冷える思いだった。


生きていた?

あの状況で?

違う、違う、違う、違う!!



『人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し…あけてあけてあけてあけてあけて開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ開けろ』



岬は堪らず更に数歩後退した。

ハンガーを握る手に力がこもる。


ミシッ、と扉が軋んだ。


万事休すか。


諦めが岬を襲う。


ああ、帰りたかったな。


うちには面倒を見なきゃならない子たちが沢山いるから。

猫缶とドッグフードを買って帰りたかった。

ああ、そういえば新しいおやつも最近出たんだっけ。

お土産にしたら、食べてくれたかな。


『開けろあけて開けろ人殺しあけて人殺し人殺し人殺し人殺し開けろ開けろあけてあけてあああけてあけ』


「邪魔だブス」


不意に割り込んで来た鋭い男の声。

大きな何かが床に倒れる音がした。

扉の下の隙間からどす黒い赤がじわりじわりと広がってくる。


それに気を取られていると、また扉がガアンと殴られた。

びくっと肩が跳ね上がる。


「おら、開けろ。助けにきてやったぞ」


その投げ槍な言い方に、岬は迷う。

先の様な嫌な感じはしないが、果たして。


ええい儘よ!


指で鍵のつまみをかちり、と回す。


扉を蹴破って入ってきたのは、ゾンビではなかった。

血に濡れたサバイバルナイフを持った若い男が、右脚を前に突き出した状態で立っている。

土砂降りの中現れたのであろう、その男は頭から服まで、水をポタポタと滴らせていた。


「こんばんはぁ、助けにきてやったぜ」


口の端を持ち上げて、男は目を細めた。


さて、この男。

こつこつとブーツを鳴らしながら部屋に入ってきた。

外開きの扉を力技で内開きにして来たものだから、扉自体がぶっ壊れている。

これ鍵開ける必要無かったのでは。


壊された扉の向こうは、血が飛び散っていない場所が無いのでは、と思われる程に彩られている。

部屋の前には頭皮を剥がされて脳が露出し、開きにされて臓物の殆どを食べ尽くされ、肋骨が剥き出しになったあの母親の死体が転がっている。

側頭部に何かを突き刺されたかのような傷が見えた気がした。

それに目を奪われていると、おい、と呼ばれた。

白銀の髪の間から、鮮血を連想させる赤い目が岬を見ている。

それは店員に移った。


「あの女は?あいつらに噛まれたのか?」


ビニール紐で首を吊っている店員を見ながら聞いてきて、岬は、いいや、と首を振った。


「噛まれては無いと思う…耐えられないって…ちょっとだけ、目を離したら……もう」


「いい、わかった」


饗はぽんと岬の肩を叩いた。


「よく一人で頑張ったな」


そして、彼は何事もなかったかのように、店員に寄ると、ベルトから綺麗なナイフを抜いてビニール紐を切断する。


ぐしゃと倒れた店員の首にまだ締まったままの

紐も、肌を切らぬよう丁寧にナイフでスッパリと切り外した。


「遺体はあとの回収になる。それまでは、申し訳ないがこのままだ」


「そう、なんですね」


申し訳程度に、店員の口からハンカチを抜いてパタパタと伸ばして、ある程度まで乾いた時点でそれを店員の顔にふわりと掛ける。

両手を腹の辺りでゆるく組ませて、饗はそっと目を伏せる。


救えなかった命にせめてもの、という事なのだろうか。

岬も両手を合わせて、目を閉じ頭を下げた。




それから少しだけ、自己紹介を兼ねた話をした。

名前と年齢、趣味なんかの話を。

岬は19歳だったが、まさか饗も同い年とは。


もっと若く見えた、と言えば、うるせぇと睨まれた。


そんな話も切り上げて、ほら行くぞ、と饗を先頭にスタッフルームを出る。

店内は酷いままだった。


友人と座っていた席には、岬の荷物がそのまま放置されており、慌ててそれを肩に掛ける。

素早く充電が切れかけているスマホへ、ポケット充電器を刺す。

これで少しは回復する筈だ。


「おい、ハンガーも良いけどな、こっちにしとけ。…出来るだけ守りはするが、俺は万能じゃねぇし何でも出来る訳でもねぇ。もし間に合わなかったらどうにもならねぇ。だから護身用だ。万一の時は死ぬ気で戦って死ぬ気で生き残れ」


「死ぬ気、で…」


店員のビニール紐を切った方のサバイバルナイフを渡されて、その重さにこれが玩具では無い事を改めて知る。


「そう、死ぬ気でだ。殺すなら頭に刺せ。殺すのが怖いなら、とにかく何でもいい。時間を稼げ」


立ち上がる間もなく座席で食い散らかされた子供。

ひっくり返って割れてしまっているコーヒーカップの側で、背骨が見えるほど肉を抉られてうつ伏せのまま絶命している男性店員。

ゾンビになりながら、自らの破れた腹から出る腸を自分の口に延々と運び続けていた、と思われる男。頭にフォークが持ち手ギリギリまで深く刺さっており、動かない。


そう。不思議なことに、この喫茶店で動いている物は、岬と饗以外いない。


「行くぞ。今は別の奴らがゾンビ共の気を逸らしてるから少ないが、時間はない。あいつらが喰われたらまたこっちに戻ってくる。」


「…え、喰われたらって…」


「…あいつらは囮役だ。生存者を安全に助けるために、自らを餌とする」


「え、さ…」


「運が良けりゃ生きて会える。…ま、その話はあとだ。今はお前を連れて避難所にしてあるスーパーに向かう。死にたくなきゃ、俺から離れずかつ静かに歩け。奴らは目が見えない分耳が滅茶苦茶良い、小石蹴っ飛ばしただけで見つかると思え」


鋭い目で見られて、聞きたいことは山程あれど。

今はその時間ではないのだろう、と岬は小さく頷いた。

それに饗も頷くと、土砂降りの中に飛び出していった。






バシャ、と水溜まりを跳ねさせながら、走る。

目の前の男を見失ったら、死ぬと思ったから。


数キロ先のビル街の方から怒声と悲鳴、そして爆発音が聞こえた。


「救助部隊がゾンビ共にやられただけだ、気にすんな」


何でもないように言って、饗は歩みを止めない。

岬は何度も止まりそうになってしまうのに。


誰かのために誰かが死ぬ。


自分のために少なくとも、二人は死ぬ。


ああ、ごめんなさい。


聞こえるはずもないのに、岬は謝ることしかできなかった。


『おう!中村さんに助けられたかぁ、良かったな』


『俺らは気にすんな、覚悟の上ってもんよ』


すぐ後ろから。


あの時、岬を見つけてくれた声がする。

驚いて振り向きそうになるのを、やんわりと背中を押される形で拒否された。


『ほら、早く行け。中村さん遅れるとマジでヤバいからな』


『…助けられて良かった……諦めないでくれてありがとうな。最期に助けられて俺ぁ満足だ!』


ありがとう、はこちらの台詞だ。

諦めないでくれたのはあちらだ。


ふと、背後の気配が増えた気がして、ああ、と察する。


自分以外誰も助からなかった。

友人も駄目だったのだろう。

正直、覚悟はしていた。


だって、後ろに増えた気配は、よく知った彼らのものだったから。


『おーい!たまにで良いから俺達の事も思い出してくれよなー!じゃーな岬、せいぜい長生きしやがれこのヤロー!』


目の前が、涙で歪む。


ばかだなぁ。


何でお前だけ生きてるんだと恨み言を言われた方が、まだマシだったのに。


『振り向くなよ!元気でな、岬!!』


「…ありがとう……ごめん、皆…ごめんな、ごめん…っ…!」


耐えられなくて、ボロボロ泣きながらも岬は振り返らない。

そんな彼の異変に気付いた饗が、岬の腕を掴む。


「あと数キロ先だ。しゃんとしろ」


言われて、半ば岬は引摺られるように歩かされた。





この町で、ほんの僅かな生存者の一人。


彼は後に掃除屋へ入る事になる。


あの時。

自分一人のために犠牲になった二人と、死して尚、恨み言も言わず、ただ友の無事を願った彼らに、いつか報いるために。


彼の名は岬 悠。

現在21歳の、大学生だ。


武器はサバイバルナイフ。

他にも近接武器ならある程度はこなせる。


年が同じの中村饗と、馬鹿な話をするのが好きな、沢山の捨て猫や捨て犬、飼い主をゾンビにより喪った動物達を一手に引き受けて、毎日多忙な赤毛の掃除屋だ。

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