第壱章 萌芽ノ旅

第一話

「やぁ、こんにちは。稗田阿礼ひえだのあれさんの自宅はこちらですね?」

 星も消えてしまったような真夜中。俺は一人寝ていたところだった――はずなのに。真夜中に戸が叩かれた。しかも強く、何度も。流石の俺でも起きるに決まってる。

 最初は盗賊かなんかだと思った。隣の部屋で寝る父も起きなかったし無視していた。けれどあまりにもうるさかったため、俺は目を擦りながら外に出た。…一か八かで。

 そしたら…真っ黒な衣に身を包む男がいたんだよ。それで呑気な声でそう言われたわけ。にこにこ笑顔で。意味わからんて。不審者か。

「あぁ、久しぶりですね、阿礼さん。」

 そしてその男は頭に被っていた衣を取った。出てきたのは、白髪の長髪に深緑色の目…――

「おま、お前、あの時の――!」

「僕の名前は『あの時の』ではありませんよ」

 俺がチビの時に見惚れていたあの筆録司…!あれから五年経ったが少しも顔が変わっていなかった。

「お前、なぜここに…?」俺がそう尋ねると、彼は微笑みながら言った。

「まぁまぁ急かさずに。一旦いえに入れてくださいよ」

 嫌だよ!――と言いたいが断れなさそうなので舎に入れることにした。

「お父さん寝てるから静かにしろよ」

 そう言って、俺は戸を開けた。そして父に見つからないうちに、すぐに部屋に戻って戸を閉めた。

「わお、なんというか…お世辞にも綺麗な部屋とは言えませんね」そいつは、そう言いながら部屋を見渡す。まぁ確かに汚いけど言わなくて良くない?

「しっかし…こんな夜に突然すみませんねぇ」「お前が来たんだろ」

「そうなんですけど…僕の計算違いでした。今日の昼過ぎに着くはずが、途中で盗賊に襲われて。荷物を奪われたのを取り戻してたら、知らない村人にも追われるし…もう大変でしたよ」

「ふーん、そう。てか誰なんだよお前。なんでそんなにして俺のとこに来たんだよ」

 俺がそう言うと、そいつは微笑んだ。その顔は彼が持ってきた蝋燭に照らされて、不気味に見えた。

「…僕は、太安万侶おおのやすまろ。あなたが知るように、〈筆録司〉です――僕がここに来たのは、ただあなたに…稗田阿礼に興味があるからです」

 …俺に興味がある、ってなんなんだよ。どうせ俺の詞魂全書ことだまぜんしょに興味があるんだろ。

 ――それにしても、眠い。隣の部屋から父のいびきが聞こえる…俺は床に横になった。

「俺もう寝る」

「そうですか、あんなに僕に見惚れていたのに、もう興味がなくなってしまったのですか」

「うるさい」

「おっと、失礼。では僕は端の方で寝ますね、おやすみなさい」

 ――なんなんだよこいつ…太安万侶?顔はいいのに、いちいち腹が立つ。なんであいつに見惚れてたんだよ。今になっていじられまくるじゃないか、この馬鹿。

 …だけど、そんなに馴れ馴れしく話しかけてきて…あまり人と話さなかった俺にとっちゃ、嬉しくなってしまうじゃないか。


「おま、お前…」

 朝の目覚めは最悪だった。

 まず太安万侶の筆みたいなやつが俺の頭に当たって起きる。それで話していたら…さ。予想はしてたけど、お父さんが戸を開けてきたんだよ。それで、太安万侶がいることに驚いて、今放心状態らしい。

「あぁ、お邪魔しています、太安万侶です。」

 そんな父を目にしても冷静沈着でいられるこいつ…あまり褒めたくないが。

「いいいい、いつきた?」

「お父さん、そんなに慌てないでくださいよ――いつって…昨日の真夜中です」

「何をしに?」

「息子さんを攫いさらいにきました」

 ――は?

 いや聞いてないって。攫いに…って、どういうことよ。俺を連れて行くのか?…そう聞きたいのだが父がいるのでそんなことは言えない。俺は父の言葉を待った。

「…残念ですが、それはできません。息子はもう十五才で、今年詞継として旅に出させるつもりなので」

 そうだ。俺は詞継になる修行をさせられ…今年、旅に出ることを決められていた。

「そうですか。あなたは知らないんですね、あなたたちの持つ詞魂全書が今、失われかけていることも」

 …なん、だと…?失われかけている…ということは、各地で記憶が消えてきているのか?その場合、また各地で詞魂を収めにいかねばならない。速急に…。

「出鱈目を言うな!息子は渡さない!」

 父が声をあげた。その発言は一見、俺を守るためのものだと思われるが…実際はそうではなかろうよ。

「出鱈目?僕は本気ですけどね――まぁ、信じてもらえないならそれでいいです、さようなら」

 太安万侶はそれまでの笑顔を消した…諦めた…?そう思った瞬間、俺の手が引っ張られた。

「お、おい…お前何するんだよっ…!」

「何する、って…攫うんです」太安万侶は笑顔を戻して言った。「お前…!」

 お父さんが鬼の形相でこちらを見ている。拳を突き出し、今にも殴りかかるような体勢で。

「…稗田阿礼さん。あなたはどちらを選びますか?」突然、太安万侶が俺の方を見て言った。「僕と一緒に詞魂を巡る旅をするか、あなたの父親に決められた道を歩むか」

「…は…?」

 舐めてるんじゃない。俺はお父さんの言う通りにだってできる。これまでできたのだ、きっとこれからだって――

 でも、もしこいつと旅に出たら?

 広い世界を見れるのではないか。筆録司と共に二人で旅ができるのではないか。――俺の長年の〈夢〉が叶うのではないか…。

「俺は」

 自分の意思を尊重しよう、今回ばかりは。

「俺は、旅をしたい」

 自分の決意を声に出した。誰にも縛られず、自分で。太安万侶が微笑んだ。

「…阿礼――」しかし、父は自分の息子に裏切られたような気持ちだったのだろう。「お前を思って言ってることなのに!」俺に向かって拳を振り上げた。

「――っ」

 俺は目を瞑った…殴られる――そう思った瞬間だった。

 腕を引っ張られ、自然と戸が開く。外にでた。風が背中を押していた。――俺は、馬に乗っていた。

 外の景色は美しかった。青い空、小鳥の囀り…そして、遠ざかっていく俺の家を見ていた。素朴な作りだった。自らいえを見るのなんて、いつぶりだっただろうね。

「阿礼さん、気分はどうですか?」

「――」

「阿礼さん?」

「…うわっ、ごめん、気づかなかった」

 俺の前で太安万侶が話しかけていたらしい。気が付かなかった。

「この馬は…?」

 俺は乗っている馬を見て言った。昨日はいなかったはずの、真っ黒の馬。

「あぁ、この子…この子は、僕の筆で生み出した〈生物〉です」

「〈生物〉…?」

 太安万侶は腰に入っている筆を回した。誇らしげな表情をしていた。

「…まぁ、僕の筆は間違えない、そう思っていただけると」

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