第3話 初回治療

面談を終えた小林医師は、病棟で電子カルテを開きながら、担当看護師の渡辺と病棟薬剤師の田中に声をかけた。

「萩野さんは入院を延長して、明日から最初のケモをすることになった。」

「先生、どの治療にされますか?」

薬剤師の田中が尋ねる。

「萩野さんはまだ若いから、FOLFIRINOXでいく。……田中さん、萩野さんのいた大学の出身だったよね?」

「はい。私が学生の頃は、たしかまだ助教だったと思います。同じ教室ではなかったので直接の面識はないのですが、同級生にその研究室の人がいました。」

「そうか。先生に治療の説明をするのは少し気が引けるかもしれないけど、明日の朝一で治療薬の説明をしておいて。そのあと萩野さん本人に最終確認をして、治療を始めよう。もうオーダーは入れてあるから。」

「わかりました。」

「あと渡辺さんは、看護師長に萩野さんの入院延長の件を伝えておいて。問題なければ入院は1週間くらいになると思う。」

そう言うと、小林はカルテを閉じ、病棟をあとにした。


今回の萩野の治療に用いられる FOLFIRINOX(フォルフィリノックス)療法 は、膵がんなどの治療に使われる抗がん剤の併用療法である。

ひとつの薬では太刀打ちできないがんに対して、四つの薬がそれぞれ異なる作用機序で協力し、がん細胞を攻撃して増殖を抑える。

使用される薬剤は、フルオロウラシル(5-FU)、ロイコボリン、イリノテカン、そしてオキサリプラチン。

それぞれの薬剤名の頭文字を組み合わせて「FOLFIRINOX」と呼ばれている。

この治療は高い抗腫瘍効果が期待できる一方で、副作用も比較的強い。

そのため、体力があり全身状態が良好な患者に対して、第一選択として用いられることが多い。


田中は翌朝、萩野に説明するための FOLFIRINOX療法の説明文書 の準備を始めた。

消化器病棟では抗がん剤の治療の前に担当薬剤師が詳細な薬と治療による副作用の説明をすることになっている。

薬剤師というと「薬局で薬を渡す人」というイメージが強いが、病院での業務はそれだけではない。

外来・入院患者の内服薬の調剤に加え、注射薬の無菌調製、抗がん剤や高カロリー輸液の調製、治験薬の管理、病棟業務など多岐にわたる。

中でも病棟での薬剤師業務は一般にはあまり知られていない。

持参薬の内容確認、副作用の聴取、処方内容の適正確認、治療薬の説明——。

表に出にくいが、薬物治療を安全に進めるために欠かせない、いわば“黒子”のような存在である。


田中は大学を卒業後、この病院に就職した。

入職後は内服薬を扱う調剤室、注射薬の無菌調製を行う無菌室を経て、現在は消化器病棟担当として3年目を迎えている。

この病棟には胃がんや大腸がんなど、さまざまながん患者が入院している。

早期発見により手術が可能となり、外科病棟へ移る患者もいれば、手術が適応外となり、消化器病棟で治療と看取りを続ける患者もいる。

なかでも、萩野のようなすい臓がんの患者は診断からの余命が短く、もっとも心を擦り減らす疾患だった。

田中もこれまで同様の患者を数多く見てきた。

治癒の見込みが限られた患者に対しては、必要以上に感情を揺らさぬよう努めてきた。だが、萩野に関してはどこか違っていた。

直接の面識はほとんどないはずなのに、心の奥に小さなざわめきが残っていた。




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あの音が命を灯す ~自然が奏でる音の薬~ ピリカソヤ @rytamin

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