第2話 ステータス画面と鼻歌

翌朝。

長谷川家の朝は、戦場のように慌ただしい。

「結月! いつまでテレビ見てるの!」「咲良、早く顔洗っちゃって!」「あなた、ゴミ出しお願い!」

妻・美咲のハリのある声が、リビングに響き渡る。


「はーい…」

ソファでスマホをいじっていた長女の結月が、気のない返事をする。小学六年生。最近、少しずつ大人びてきて、父親である秀一とは会話も減りつつある。

「パパー、見て見て! 今日の髪、ママに結んでもらったの!」

洗面所から駆け寄ってきたのは、まだ無邪気さが眩しい小学四年生の次女、咲良だ。


「お、可愛いじゃないか」

秀一が頭を撫でてやると、咲良は嬉しそうにはにかんだ。

そんな娘たちと、テキパキと家事をこなす妻。いつもの朝の風景。秀一は寝癖のついた頭を掻きながら、トーストを口に押し込んだ。


異変に気づいたのは、出勤の準備を終え、リビングのソファに置いた自分の鞄を持ち上げようとした、その瞬間だった。


(……ん?)


視界の右上に、半透明の青いウィンドウが浮かんでいた。まるで、SF映画か、あるいは娘たちがやるようなゲームの画面だ。そこには、ゴシック体めいたくっきりとした文字が表示されている。


長谷川 秀一はせがわ しゅういち

職業:吟遊詩人バード Lv.1

MP:10/10

スキル:歌唱力 Lv.1 (熟練度 0/100)


「…………は?」


思わず、乾いた声が漏れた。

なんだ、これは。

目を擦り、数回強く瞬きを繰り返す。だが、ウィンドウはそこにあり続ける。手を伸ばしてみるが、もちろん指は空を切るだけだ。実体がない。脳に直接映し出されているような、奇妙な感覚。


(病気か? それともストレス……?)

最近、疲れが溜まっていた自覚はある。ついに幻覚を見るようになってしまったのか。


「あなた、どうしたの? ぼーっとして。遅刻するわよ」

訝しげな顔で、美咲がキッチンから顔を出す。

「あ、ああ、いや……なんでもない。ちょっと、昨日の採点の疲れが目にきてるみたいだ」

秀一は慌てて笑顔を作って誤魔化した。美咲には、この奇妙なウィンドウは見えていない。だとしたら、これはやはり自分の脳だけの問題だ。


吟遊詩人バード……? 俺は高校教師だぞ。MPってなんだ。ゲームじゃないんだから)

内心の動揺を押し殺し、秀一は「いってきます」と妻に声をかけた。玄関のドアを開けるその瞬間まで、美咲に背を向け、必死に平静を装っていた。


通勤の車の中でも、職場のデスクに座っても、それは視界の隅に表示され続けている。授業中も気になって仕方がない。『平家物語へいけものがたり』の有名な一節、「祇園精舎ぎおんしょうじゃの鐘の声、諸行無常しょぎょうむじょうの響きあり」を朗読しながらも、頭の片隅では「俺の身に起きているこの現象こそ、諸行無常じゃないか…」などと、くだらないツコミを入れてしまう始末だ。


昼休み、他の教師たちが食堂へと向かう中、秀一は一人、誰もいない国語準備室に籠った。

意を決して、一つの仮説を試してみることにしたのだ。

スキル:歌唱力。

彼は、特に歌が上手いわけではない。カラオケに行けば、人並みに盛り上げ役をこなす程度だ。

周囲に人がいないことを確認し、まるで悪いことでもするかのように、ごく小さな声で学生時代に好きだった歌のサビを、鼻歌で口ずさんでみる。


すると、信じられないことが起きた。


スキル【歌唱力】の熟練度が1上昇しました。(1/100)


ウィンドウの文字が、確かに更新されたのだ。

「……うそだろ」

心臓が、ドクンと大きく跳ねた。幻覚ではなかった。これは、何らかの法則性を持った、現実の現象だ。

もう一度、震える声で歌ってみる。熟練度が、また1上がる。(2/100)

三度目。四度目。歌うたびに、数字は着実に増えていく。


幻覚ではなかった。彼の身に、ゲームのような何かが、本当に起きている。

秀一は、ゴクリと唾を飲んだ。

これは一体、何なんだ?

そして、この力は、何のために……?


その日の帰り道、秀一は車の中で、誰に聞かせるともなく、何度も何度も鼻歌を歌い続けていた。熟練度の数字が一つ、また一つと上がっていくのを、最初は恐る恐る、次第に夢中になって、ただ眺めながら。

それは、四十年間生きてきた中で経験したことのない、奇妙な高揚感だった。

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