第3話 我が家のファーストコンサート

あの日以来、長谷川 秀一はせがわ しゅういちの日常には、奇妙な秘密が一つ増えた。

通勤中の車内は、彼だけの練習スタジオと化した。最初は小声だった鼻歌は、日に日に自信を帯びたメロディに変わっていく。視界の隅に表示される熟練度のゲージが、まるで燃料計のように彼の心を駆り立てた。


スキル【歌唱力かしょうりょく】の熟練度が100に到達しました。

【歌唱力】が Lv.2 にレベルアップしました。

職業【吟遊詩人バード】が Lv.2 にレベルアップしました。

MPの最大値が5上昇しました。(MP 15/15)

新たなスキル【感動かんどう Lv.1】を獲得しました。


レベルアップは、金曜日の帰宅途中の車内で訪れた。

文字が明滅し、ステータスが更新される。新しいスキルの文字を、秀一は何度も瞬きしながら見つめた。

【感動】――。

いったい、どんな効果があるというのだろう。


その日の夜。

長谷川家のリビングでは、夕食後の団らんの時間が流れていた。妻の美咲みさきは雑誌を読み、娘たちはテレビで音楽番組を眺めている。

「この人、あんまり上手じゃないね」

画面に映るアイドルグループの一人を指して、長女の結月ゆづきが冷めた口調で言った。

「えー、そう? 私は好きだけどなー」

と、次女の咲良さくらが反論する。


いつもの、他愛もない姉妹の会話。

秀一は、ゴクリと喉を鳴らした。試すなら、今しかないかもしれない。


「――なあ、二人とも」


秀一がおもむろに切り出すと、娘たちが不思議そうな顔でこちらを向いた。美咲も雑誌から顔を上げる。

「実は、お父さん……最近、ちょっとだけ歌の練習をしてるんだけど」

「え、パパが?」「うそだー」

娘たちの反応は、当然ながら懐疑的だ。美咲も「あなた、どういう風の吹き回し?」と面白そうに笑っている。

「いや、ほんの少しだけだよ。……よかったら、一曲、聴いてくれないか?」


リビングが、一瞬だけ静まり返った。

結月は「えー、別にいいし…」と興味なさげに視線を逸らす。だが、咲良は「聴きたい! パパ、歌って!」と目を輝かせた。

「ほら、咲良もこう言ってることだし」

秀一は、わざとらしく咳払いを一つした。心臓が、柄にもなく高鳴っている。


何を歌うか。車の中で何度も練習した、少し懐かしいバラード曲のメロディを思い浮かべる。

すぅ、と息を吸い込んだ。


秀一の口から、最初のフレーズが紡がれる。

それは、彼自身も聴いたことのないような、不思議な響きを持った声だった。

決して声量が大きいわけではない。技術的に完璧というわけでもないだろう。だが、声の一音一音に、言葉の一つ一つに、まるで色が乗っているかのように、豊かな感情が込められていた。


テレビの音が、いつの間にか気にならなくなっていた。

咲良は、口を半開きにしたまま、ステージ上の本物の歌手を見つめるように、父親の顔をじっと見つめている。

ソファの端でそっぽを向いていた結月の動きも、止まっていた。その伏せられた横顔が、微かに強張っている。

そして、美咲は――雑誌を膝の上に置いたまま、驚きに見開かれた目で、夫の姿を凝視していた。


歌がクライマックスに差し掛かり、秀一が思いを込めて声を響かせると、咲良の大きな瞳から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ちた。結月も、慌てて鼻をすする。


やがて歌が終わり、リビングに穏やかな静寂が戻ってきた。

秀一自身、自分の歌声に自分で驚いていた。まるで、自分の身体が最高の楽器になったような、不思議な感覚。これが、レベルアップした【歌唱力】と、新しいスキル【感動】の効果なのか。


「…………パパ」

最初に口を開いたのは、咲良だった。

「……すごかった。今の、すっごく……感動した」

涙で濡れた瞳で、彼女は満面の笑みを浮かべた。

「……別に。そんなでもなかったけど」

結月はそう言いながらも、目元が少し赤くなっているのを隠せていない。


秀一は、胸が熱くなるのを感じた。ああ、試してみてよかった。

その時だった。


「……あなた」

美咲が、呆然とした表情で秀一の名を呼んだ。

「いつの間に、そんな……。カラオケで聴くあなたの歌と、全然違う。声はあなたのものなのに、聴いたことのない響きがして……鳥肌が立っちゃった」

その声は、疑いではなく、純粋な驚きと賞賛に満ちていた。

「隠してたのね、そんなに歌が上手だったなんて。まるで、プロの歌手みたいだったわ」


「はは、いやあ、練習の成果かな」

秀一は、照れくさそうに頭を掻きながら、必死に動揺を隠した。

家族に受け入れられた喜びと、この大きな秘密を一人で抱えていくのだという、かすかな孤独感。その二つを胸に抱きながら、彼はただ笑うしかなかった。


彼のステータス画面に表示された【感動 Lv.1】のスキルが、静かにその存在を主張していた。

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