俺の歌声だけが【スキル】を持つ世界で~しがないアラフォー教師、神の歌声で成り上がる~

坂下 卓

第1話 夕暮れの教室

男は、いきを殺して、ステージへと続く、暗い舞台袖に立っていた。

心臓が、肋骨のおりを破って飛び出しそうなほど、激しく鼓動している。

耳に届くのは、数千人の聴衆が、固唾をのんで自分を待つ、地鳴りのような静寂。そして、彼が装着を義務付けられた、小さなイヤホンから流れてくる、冷たく、無機質な電子音。

ピッ……ピッ……ピッ……。

それは、遠く離れたジュネーブの病院の一室で、か細い命を繋いでいる、愛する娘の心電図の音だった。


『――歌え』


頭の中に、あの男の、穏やかで、しかし、有無を言わせぬ声が響く。

『お前の歌で、世界を、混沌に突き落とせ。そうすれば、娘の命だけは、助けてやる』


世界か、娘か。

悪魔が突き付けてきたような、あまりに無慈悲な、究極の選択。

彼は、これから、その喉一つで、世界の運命を、そして、イヤホンの向こうで消えかけている、愛する者の命を、天秤にかけるのだ。


ふと、舞台袖の鏡に、自分の姿が映った。

そこにいたのは、英雄でも、救世主でもない。

ただ、疲れ果て、追い詰められた、どこにでもいる、四十過ぎの中年男の、情けない顔だった。


(どうして、こうなった……)


ほんの少し前まで、自分は、ただのしがない高校教師だったはずだ。

住宅ローンと、娘たちの将来を憂い、平凡な毎日が、ただ、静かに過ぎていくのを、待っているだけだったはずだ。

全ての始まりは、確か、あの日の、夕暮れの教室だった――。


***


岡山県岡山市おかやまけんおかやまし、私立夕陽ゆうひ高等学校。

その名を冠した校舎は、夏の終わりの陽射しを浴びて、その名の通り、西の空を染める茜色に包まれていた。


放課後の喧騒が遠ざかった教室で、長谷川 秀一はせがわ しゅういちは、一人黙々と赤ペンを走らせていた。手元に積まれたのは、古典の小テストの答案用紙。聞こえてくるのは、ペンの先が紙を擦る音と、グラウンドから届く野球部の威勢のいい掛け声だけだ。

チョークの粉と、古い紙の匂いが混じり合った、懐かしい、しかし、何も変わらない空気。


(……ふぅ)


一つ区切りをつけ、秀一は固まった背筋を伸ばした。四十歳。

人生の折り返し地点だと、誰かが言っていた。だが、自分には、もう折り返すほどの道も、選ぶべき道も、残ってはいないように思えた。

私立高校の教師という職は安定しているが、決して裕福ではない。頭に浮かぶのは、まだ半分以上残っている住宅ローンと、これからますます嵩んでいくだろう娘たちの学費。

その数字を、脳内のそろばんで弾いては、深いため息をつく。それが、ここ数年の、彼の癖だった。


自分は、生徒たちに何を教えているのだろう。

光源氏ひかるげんじの華やかな恋模様や、清少納言せいしょうなごんの鋭い観察眼、あるいは諸行無常しょぎょうむじょうの響きに込められたつわものたちの悲哀。

千年もの時を超えて語り継がれる、綺羅星きらぼしのような言葉の世界。

だが、その輝かしい物語を語れば語るほど、自分の人生の、あまりの退屈さが、色褪せた現実が、浮き彫りになっていくだけだった。


愛する妻の美咲みさきがいる。生意気で可愛い二人の娘、結月ゆづき咲良さくらがいる。

その日常が何よりの宝物だと、心から思う。

だが、心のどこかで、消えない渇望が、くすぶっているのだ。

このまま、同じ毎日を繰り返し、少しずつ老いていくだけの人生で、本当にいいのだろうか、と。


キーンコーンカーンコーン……。


生徒の完全下校を促すチャイムが、物憂げな旋律を奏でる。

「さあ、帰るか」

秀一しゅういちは、鞄を肩にかけ、教室のドアへと、歩き出した。


その、二歩目のことだった。

ズキリ、と。

まるで、細い針で刺されたかのような、鋭い痛みが、彼の右目の奥で、一瞬だけ、走った。

「……っ!」

思わず、足を止め、目頭を押さえる。

その、ほんの僅かな時間。視界の右端が、陽炎かげろうのように、ぐにゃりとゆがみ、そして、ぼやけた。

教室の窓枠が、ありえない形に、一瞬だけ、変形して見えた。


だが、その異常は、瞬き一つする間もなく、消え去っていた。

後には、いつもの、見慣れた教室の風景と、目の奥に、微かな痛みの残滓ざんしが、残っているだけだった。


「……疲れてる、のか」


彼は、それを、ただの疲れのせいだと、思い込むことにした。

いつもと同じ道を通り、いつもと同じ家に帰る。食卓には美咲の作った温かい夕食が並び、娘たちの賑やかな声が響くのだろう。

そう、いつもと、何も変わらないはずだ。


だが、それこそが、彼の平凡な日常が、音を立てて崩れ始める、最初の、本当に、最初の、小さな亀裂だったのだ。

そのことに、彼は、まだ、気づく由もなかった。

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