「覆い名」
古書市で買った和綴じ本のページに、妙な跡があった。
登場人物の名の部分だけ、墨で厚く塗りつぶされているのだ。
だが光に透かすと、かすかに文字の影が残っている。読めるほどではないが、確かにそこに「名」があったと分かる。
古本屋の主人は言った。
「前の持ち主は、名前を覆う癖があったらしい。呼び間違えや呼び寄せを避けるために」
私は笑って受け流したが、帰宅して読み進めるうち、胸の奥にざらつきが残った。
調べると、古い時代には「覆い名(おおいな)」という風習があったという。
病や祟りを避けるため、子どもや病人の名をわざと隠し、仮の名で呼ぶ。
覆った名は、誰にも口にされず、ただ影のように沈んでいく。
私は半信半疑のまま、試しに自分のノートに本名を大きく書き、その上を黒いマーカーで塗りつぶした。
その夜、夢に見知らぬ人が現れ、私の名を呼んだ。
だが声は最後の一音で途切れ、喉に墨を流し込まれたようにかすれて消えた。
翌朝、ノートの黒い面がひび割れていた。
マーカーの下から、覆ったはずの名の最後の字だけが浮かび上がっている。
出勤途中、同僚が私を呼んだとき、彼はその字を口にしなかった。声が不自然に途切れ、代わりに「あの人」と曖昧に指した。
覆った名は、現実からも隠れていくらしい。
夜、古書の間から小さな木札が出てきた。
表は真っ黒に塗られ、裏には「覆」の一字。
触れると、耳の奥で低い声が響いた。
――これに名を置け。覆えば、届かない。
私は恐怖と好奇心に負け、再び自分の名を刻もうとした。だが刻む前に、ふと気づいた。
刻んでしまえば、覆いの下に名が固定される。それは、戻れないのではないか。
翌朝、会社の受付名簿から私の名が抜け落ちていた。
出勤記録も空欄のまま。
同僚は「最近入った人」と私を紹介し直す。誰も私の本名を呼ばなくなっている。
覆った名は、世界から剥がれつつあった。
夜、夢に再びあの人影が現れた。
今度は名を呼ばず、黒い札を差し出してきた。
――覆えば、永遠にここにいられる。
私は札を受け取りかけて、はっとして手を止めた。
「呼ばれなくても、私はいる」
声にした途端、札は砕け、影は霧のように消えた。
翌日から、名簿に再び私の名が戻っていた。
ただし、最後の一文字はかすれている。
誰かが口にすると、必ずそこだけ曖昧になる。
私は敢えて訂正しないことにした。
覆った名の一部が残っている方が、呼び間違えや呼び寄せから遠ざかる気がしたからだ。
名を隠すことは、名を消すことではない。
覆いの下に、湿った影が残り続ける。
私は今も、ノートの黒い面をときどき開く。
そこにあるはずの名を呼ばずに閉じることで、かろうじて自分が「呼び切られていない」ことを確かめる。
――呼ばれなかった名は、今もどこかに在り続ける。
(了)
怪異蒐集録-「な」 @momo_mom0
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