「耳なし井戸」

 町外れの廃寺の境内に、苔むした石の井戸がある。

 周囲の住民は「耳なし井戸」と呼んで近寄らない。

 寺がまだ栄えていた頃は、参詣に来た人々が手を清めるために水を汲んだという。だが戦後しばらくしてから水が濁り、ついには枯れた。蓋もされずに放置され、今は雑草に囲まれている。


 私は郷土誌の取材でこの寺跡を訪れた。石垣に沿って写真を撮っていると、風もないのに、井戸の奥からかすかな声が聞こえた。

 最初は水音かと思った。だが耳を澄ますと、人の声だ。


 ――聞こえるか。


 井戸に顔を近づけると、声が確かにこちらを呼んでいる。

 ――聞こえるなら、名を言え。


 私は慌てて離れた。

 しかしその夜、夢の中でまた声がした。暗い井戸の底から、いくつもの声が上がってくる。

 ――名を呼べ。

 ――ここに残せ。

 囁くたび、耳の奥がじんじんと痛む。

 目が覚めると、鼓膜の裏に砂を詰められたような圧迫感が残っていた。


 翌日、井戸の噂を町の老人に聞いた。

 「昔な、あの井戸で遊んでた子どもが、名前を呼ばれたってんだ。返事をしたら、次の日から片耳が聞こえなくなった」

 「耳なし井戸ってのは、そういうわけか」

 「いや、それだけじゃねえ。名を残した者は、耳から順に削られて、最後は声ごと持ってかれる。だから、井戸に呼ばれても返すな、耳を貸すな、って昔から言われてる」


 老人の顔は真剣だった。

 私は恐ろしくなり、もう近づくまいと思った。


 だが声は夜ごとに強くなる。

 布団に潜っていても、井戸の底から呼ばれる。耳を塞いでも骨を通って響く。

 ――おまえの名を、貸せ。

 ――ここに、残せ。


 ある晩、鏡を覗くと、耳の輪郭が薄く霞んでいた。光の当たり方ではない。実際に輪郭が削られている。

 私は恐怖のあまり、机に紙を広げ、自分の名前を一字だけ書きかけた。

 その瞬間、耳の奥の痛みが一瞬和らいだ。


 だが紙の上の字は、翌朝消えていた。

 代わりに、井戸の石垣に同じ字が刻まれていた。


 私は寺跡の守をしている僧に相談した。

 僧は井戸を見下ろし、小さく経を唱えた。

 「この井戸は、名を食う。水が枯れた代わりに、人の名を水にして繋がっている。耳から侵すのは、そのためだ」

 「どうすれば……」

 「呼ばれても応えるな。だが既に応じてしまったなら、名を半端にして残せ」


 僧は私に半紙を渡した。

 「一画だけ欠けた名を写せ。完全には書くな。欠けを残せば、井戸は満たされぬ」


 私は夜ごと、半紙に自分の名をわざと欠いた形で書き、井戸の傍に置いた。

 すると声は弱まり、耳の痛みも収まった。

 だが置いた半紙は翌朝には消えている。井戸の縁の苔が薄れ、そこに白い紙の跡が湿って残っているだけだった。


 ある晩、声は掠れながらも囁いた。

 ――なぜ、欠けたままなのだ。

 私は答えなかった。


 夏が過ぎる頃、井戸は静かになった。

 耳も元に戻り、囁きも途絶えた。

 ただ、井戸の縁には幾重にも重なった半紙の影が貼りついている。風に揺れると、誰かの囁きに似た音を立てる。


 町の子どもは相変わらず近寄らない。

 だが私は時折、井戸の脇で立ち止まる。自分の名前を口に出しそうになるのを必死に堪える。

 井戸は待っている。いつか誰かが完全な名を残すその時を。



(了)

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