「鏡穴」
学生のころ、友人の下宿に泊まった夜のことだ。六畳間の壁に、古びた姿見が立てかけてあった。鏡枠の木はひび割れ、金具も錆びている。
「これさ、外したいんだけど重くてさ」
友人は笑って言った。彼が越してきた時からあったらしい。
寝る前、何気なくその鏡を覗いた。自分の顔は映るが、どこか輪郭が滲む。横に置いた姿見を合わせてみると、二つの鏡の間に細長い暗い隙間が生まれた。奥へ続く縦穴のようで、そこに小さな光が点々と並んでいる。
私は吸い込まれるように覗き込んだ。穴はただの反射ではなく、明らかに奥行きがあった。壁や天井の影とは別に、深淵のなかへ続く“光の階”が、どこまでも降りていくように見えた。
その瞬間、耳元で囁きがした。
――こちらへ。
振り向いても誰もいない。鏡の穴の奥から声が洩れていた。
翌朝、私は夢を見た。暗い階段を下りる自分。そこに人影が並び、私を待っている。皆、顔がなく、胸の位置に札をぶら下げている。札には名前らしき字が記されていたが、どれも途中で途切れていた。
一人が札を差し出し、かすれ声で言った。
――続きを、書け。
目を覚ますと、喉に鉛のような重さがあった。机の上のノートの隅に、自分の筆跡で見覚えのない二文字が書かれていた。
数日後、友人が青ざめた顔で言った。
「なあ、夜になるとさ、鏡の向こうに誰か立ってんだよ。影が動くんだ」
彼は布で覆おうとしたが、朝になると必ず布は床に落ちていた。
私は鏡に近づき、穴を覗いた。奥にぼんやりと人影が立っている。輪郭は薄いが、確かにこちらを見ていた。胸に札を下げている。札の字は、私の苗字の最初の一画だった。
鏡を叩いても割れない。外へ運び出そうとしたが、異様に重く、数人がかりでも動かなかった。
仕方なく、私は筆をとり、札に足りない線をノートに書き足すふりをした。すると、鏡の奥の影は一歩下がり、光の階の闇に溶けた。
だがページを閉じると、机の下に黒い粉が落ちていた。炭を砕いたようなその粉は、湿った声のように微かに震えていた。
結局、その部屋を引き払うときも鏡は置いていくしかなかった。友人は新居で何事もなく過ごしている。だが私は時折、夢であの光の階を降りる。札を胸につけた影が並び、途切れた名前を差し出してくる。
書いてしまえば、彼らは消える。
けれど、次に現れる札には、少しずつ私自身の名の一部が混ざり始めている。
階の奥から、また声が響く。
――続きを、呼べ。
(了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます