「灯籠の名残」

 私の故郷の町には、かつて「名残灯籠(なごりどうろう)」という祭があった。

 盂蘭盆の終わり、川の浅瀬に竹の骨で組んだ四角い枠を並べ、薄い和紙で囲って小さな火を入れる。灯籠の側面には、誰かの「名残」を一言書く決まりだった。名残り惜しい、の名残ではなく――「名の残り」。つまり、呼ばれなくなった呼び名の一部分、あるいは旧姓の最後の一画、幼名の一字、屋号の片鱗。

 祖母は、毎年「り」を書いた。曾祖父が祖母を「チヨリ」と呼んでいた頃の、最後の音の名残だという。

 私は子どものころ、その意味がよく分からなかった。ただ、川面に四角い火がゆっくり滑っていく様子が好きで、夜風の中で線香の匂いといっしょに胸がひんやりする、それだけが祭の全部だった。


 十数年前、川の上流に砂防ダムができてから、祭は自然に消えた。浅瀬は深い水底に変わり、河原で火を使う行事は役場の通達で禁じられた。祖母が逝ってからは、竹の骨も蔵の奥で折れていった。


 都会での仕事がうまくいかず、私は春に故郷へ戻った。役場の臨時職員をしながら、空き家になった祖母の家の片づけをする。蔵を掃いていると、灯籠の古い枠が束で出てきた。紙はとうに腐っており、竹が白く乾いて軽い。

 束の間から、茶封筒が落ちた。祖母の丸い字で「名残の紙」とある。中には、四つ切の薄紙が十数枚。隅に小さく灰色の印が押されていた。丸の中に「名」の字が、欠けた形で入っている。

 私は一枚を広げて光に透かした。紙目が細かく、薄く銀粉のような光が流れる。祖母がどこから手に入れたのか見当もつかない。

 その晩、庭で小さな火を焚き、紙の端に線香を近づけてみた。灰はきれいに巻き上がるのに、紙の中央は焦げない。火が、避ける。

 「名の残りは、燃えない」

 祖母の独り言が耳の底でよみがえる気がして、私は火を落とした。


 夏が近づくと、観光課から「往年の行事を復活させては」という打診があった。人を呼びたいのだという。

 集会所で会合が開かれ、町長は「名残灯籠」を現代風にアレンジする案をいくつも挙げた。安全なLEDの光源、プラスチックの枠、水に浮かべず公園の池に並べる演出――。

 年配の人たちは乗り気だったが、私はどこか違和感を覚えた。

 席がはけた後、古い氏神の宮司が私に声をかけた。

「燃えない紙を持ってるね」

 驚いて頷くと、宮司は目尻を細くして笑った。

「祖母さんは毎年それを一枚ずつ使ってた。紙に火を入れると、呼び名が戻る。燃え残るのは“名の湿り”のせいさ」

「呼び名が戻る……?」

「消えた名は、呼び直されるまで宙に漂うんだよ。灯りをひとつ借りると、家まで帰ってくる」


 準備を手伝っていると、中学の同級生の三砂(みさご)が子を連れて現れた。彼女は結婚して町を出ていたが、今年は里帰りだという。

「復活するって聞いたから、見に来た。さ、これ」

 差し出された紙袋には、古い屋号の看板の破片が入っていた。黒い漆に金の文字。最後の一画だけが剥げている。

「うち、店を畳むときに割れちゃってさ。名残って、こういうのもいいのかな」

「いいと思う」

 私は、祖母の封筒から一枚ずつ紙を取り出し、彼女にも一枚渡した。

「書くなら“全部”はだめだよ。名の残りだけ。最後の一筆手前まで」

 彼女はうなずき、紙を撫でながら笑った。

「ねえ、子どもの呼び名、まだ決めかねてるんだ。これで決めちゃおうかな」

「呼びやすくなるよ」

 口にしてから、私自身がその言い方にぞっとした。何を根拠に言ったのだろう。


 夜、川べりで事前の点灯確認をした。役場の提案通り、流すのではなく岸の浅瀬の上に並べ、紐でつないでおく。安全第一、と町長は繰り返した。

 私は反対もしなかった。ただ、祖母の紙を枠に貼る灯籠を一つだけ混ぜた。そこに私は「ツ」とだけ書いた。祖母が私を子どものころ呼んだ、冗談めいた相性の頭の一字だ。

 火を入れると、祖母の紙だけがふわりと持ち上がり、他の灯籠から半歩分離れた。風がないのに、紙の面が静かに波打つ。

 足元の石が、ぬるりと冷たくなる。浅瀬の水の底から、誰かが寄ってくる感触がした。

 宮司が、私の手から火ばさみを取り上げた。

「今夜はここまで。戻りが早い」


 翌日、宮司が古文書を持ってきた。墨が薄れているが、「ナゴリトウロウ」の四文字だけは読み取れた。

 「もともと、この町は移り住む人が多かった。山の仕事、川の工事、戦の行き帰り。去る人の名は、たいてい途中で形を変える。呼び名も音も、字も。だから、送りでも迎えでもない“名の残り”だけ灯す。呼びきれなかった分だけ、川に返す」

「返すって、どこへ」

「下流だよ。下流には、別の誰かの口がある。呼び損ねた名は、誰かの喉で発音されなおす」

 宮司は小さくため息をついた。

「ダムができてから、下流が変わった。呼び名が滞ってる」

 私の背中に小さな寒気が走った。祖母が亡くなって以降、私の名前を正確に呼ぶ人は減った。会社でも、短縮形でしか呼ばれなかった。呼ばれない音は、薄く削れていく。


 当日、川べりは提灯とロープで囲われ、子ども連れが集まった。町長はメディアのカメラに向かって笑い、LEDの灯籠は整然と並ぶ。

 私は最後に祖母の紙の灯籠をそっと紐から外した。川の流れに触れないように、浅瀬の最も手前に置く。側面には、一昨日三砂が書いた名残――旧姓の最後の払いを半分だけ――が揺れている。

 鐘が鳴り、合図の太鼓が一度だけ鳴った。ロープの中で、白い灯りが一斉にともる。

 そのときだった。

 祖母の紙の灯籠が、ふっと沈み、次の瞬間、ゆっくりと浮かび上がった。枠に手を伸ばしたが、指先は紙に触れず、薄い冷気だけがまとわりつく。

 川面の黒が、ぐっと近づいた。底から、透明な何かが押し上がってくる。水ではない。名前の抜け殻のようなものが、幾層にも薄く重なって、灯りの足元で形を探っている。


 最前列の子どもが泣きだした。

 宮司が太鼓を二度、間隔をあけて打った。音に驚いたのか、川底の「何か」は少し退いた。だが、完全には離れない。


 私には見えた。浅瀬の少し上流、沈んだ旧橋の脚の影が淡く浮いている。ダムの底に沈んだはずの石が、夜だけ輪郭を戻す。そこに、細い光の筋が集まる。

 祖母の紙の灯籠から、文字の白さが一筋分、細く引かれ、橋脚の影へ伸びていく。三砂が紙に書いた名残の線だ。

「行っちゃだめだ」

 私は思わず口に出していた。誰に向けたのか分からない。

 三砂は私の袖を握った。

「呼ばれてる」

「呼び切らないで」

 彼女の眼差しの奥で、赤ん坊がうとうとと瞬きをした。名の湿りが、揺れる。


 紐をまたぎ、私は浅瀬に足を入れた。水は膝まで来る前に冷えが骨に刺さる。祖母の紙の灯籠は、私を避けるように半歩ずれる。紙の四隅に、見えない指先が触れているのだ。呼び名の残りが、灯りに吸い寄せられている。

 やめろ、と叫びかけた時、宮司が川の中央に立った。腰まで浸かり、胸の前で掌を合わせる。

「――戻し詞(もどしことば)だ」

 彼は低く唱えた。意味は分からないが、川に向けてではなく、岸に向けて、地面に向けて、空に向けて、それぞれ別の音を置いていく。

 灯籠の紙がわずかに鳴った。音ではない。呼吸みたいな波。引き潮のように、橋脚の影の輪郭が遠のく。


 私は灯籠に手を伸ばし、祖母の紙の一辺を指でつまんだ。紙は冷たくも熱くもない。ただ、軽い。

 そのとき、足首に柔らかいものが触れた。掴まれる、というより、名前の残りかすに絡まれた感じ。私は言いようのない衝動にかられ、口を開いた。

 「――ツ」

 子どもの頃の呼び名の最初の音が、喉から落ちた。

 水の底が、ほどけた。

 祖母の紙の灯籠は、するりと私の指から滑り、浅瀬から岸へ、逆向きに動き出した。流れに逆らっているのに、紙は軽く戻る。宮司の唱え声が、ひとつずつ灯りを岸へ押し出す。


 岸に戻ると、三砂が震えながら灯籠を受け取った。彼女は紙の側面の名残の線を指でなぞり、そこに細い筆で、ほんの小さな点を打った。

 「全部にはしない。けど、ここまでで、呼ぶ」

 赤ん坊が、眠ったまま口を開閉する。呼び名の形に、喉が合わせる。

 宮司は頷いた。

「名は連れて行くものじゃなく、戻ってくるものだ。今夜は、戻りきった」

 ロープの内側のLEDの灯籠は、何事もなかったように淡々と光り続けている。観光客の拍手が遠くで起こり、町長のマイクの声が上ずる。

 浅瀬の手前だけが、川ではない別の面をしていた。そこに置かれた本物の火は、外の灯りとは違う温度で、息をしている。


 祭が終わっても、祖母の封筒の紙はまだ数枚残っていた。私は蔵の奥に箱を作り、そこへ紙と竹の骨と火口(ほくち)を納めた。

 「燃えない紙をしまう箱なんて、妙だな」

 自分で呟いて可笑しくなった。

 箱の蓋を閉める前、最後の一枚を取り出し、四辺を撫でてから、小さく点を打った。点といっても、紙には色が入らない。紙目がわずかに痩せるだけだ。

 私はその点を「名残点」と呼ぶことにした。呼ばれなかった名がそこに溜まり、必要なときにだけ滲む目印。誰にも説明しない。説明すると、観光課のパンフレットに印刷されるだろうから。


 秋になると、川は透明度を増す。浅瀬の石はひとつずつ輪郭を取り戻し、底の苔の匂いが乾く。

 私は役場の仕事帰りに、よく橋に立った。夕暮れ、上流から細い白い筋がひとつ、ふっと現れては消えることがある。名の残りが、まだ道を探している。

 ある日、橋の上で知らない若者に呼び止められた。

「ここ、灯籠の祭があったんですよね。祖母が言ってました。小さい頃、呼び名で呼ばれてるような気がしたって」

 私は、うれしいとも怖いともつかない気持ちで頷いた。

「今は、戻すだけです。流すのは、またいつか」


 冬の初め、私は自分の名の名残を一度だけ灯した。庭の桶に水を張り、祖母の紙を小さな枠に貼る。側面に、祖母がかつて私をからかって呼んだ妙なあだ名の一部を、ひらがなで。

 火を入れると、紙はやはり燃えない。薄く息をして、桶の水にほとんど触れずに浮かぶ。

 私はそっと、最後の一筆の手前で筆を止めた。

 火は、そこで安住した。

 桶の底から、誰かの笑い声がしたような気がした。祖母の、鼻で笑う癖のある声。

 「呼ばれたね」

 声に出さずに言った。

 名は、薄く残る。それで足りる夜がある。


 名残灯籠は翌年も行われた。観光客向けの派手な灯りの列の隅に、ごく少数の火だけが本当に燃え、紙を焦がさずに夜の湿りを舐める。

 誰もその違いを気にしない。気づいたとしても、口に出さない。

 町はそれでいいのだと思う。

 名は、呼べば来る。全部呼べば、どこかが欠ける。名残だけを置いておくと、少しだけ戻ってくる。

 私は今も、蔵の箱を開けては、紙の端に小さな点を打つ。点は色を持たず、匂いだけを残す。火はその匂いを嗅ぎつけて、夜の底を這って来る。

 名残の点は、私の生活の小さな栞だ。

 それがある限り、呼び名はどこかで続き、どこかで結び直される。

 祭が忘れられても、名の残りは、夜の水に沈まない。



(了)

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