「紙魚宿」
私は古書店で働いている。長年の湿気と埃にまみれた紙を扱っていると、しばしば目にする生き物がいる――紙魚(しみ)。銀色の細い虫で、本の隙間を素早く走り、古紙を食む。
夏の終わり、店の裏手の倉庫で閉店後の在庫を繕っていたとき、綿埃の塊が突然ふるえ、無数の紙魚が糸を解くみたいにじわりと広がった。光にびくりともせず、群れはまるで決められた道取りでもあるかのように、背表紙の谷へ、奥付の綴じへ、そして扉ページの白場へと吸い込まれていった。
その動きに、私は奇妙な偏りを見た。彼らは文字を選り好みするのだ。本文はほとんど噛まず、目次も無視するくせに、扉や奥付や見返しに押された所有印や蔵書票、それから著者名のところばかりを、丁寧になぞるように囓る。
「名を食っている」
思わず、そう口の中でつぶやいた。
ほどなくして、常連の古道具屋が段ボールを持ち込んだ。大学の研究室の整理で出たという雑本の山だ。中に、昔の私立図書館の蔵書がまとまっていた。見返しに貼られた蔵書票には、鴨の図と、流麗な草書で「青沼文庫」とある。
紙魚はそこへ群がった。私の指が触れる前に、蔵書票の墨線の上に銀の霜が降りるみたいに集まり、たちまち「沼」の水偏が薄くなった。
翌日、青沼文庫の名主だったという人物の資料を調べに郷土館へ行くと、閲覧カードの棚で職員が首をかしげていた。
「おかしいんですよ、カードの“青沼”が、ところどころ読めないんです。滲んだのとも違う。目を凝らすと、紙が痩せてる」
差し出されたカードの表面は、指でなでると微かな段差があった。まさにあの夜、店で見た痕。私は曖昧に笑って返し、背中に汗をかいた。
店に戻ると、帳場の脇に置いた来店者名簿の一頁に歯痕のようなかすれが生じていた。サインの列のいくつか、苗字の最後の一画だけが薄い。見れば、昨夜閉店間際に立ち寄った友人、中條の自筆も同じだ。
その夜、彼からメッセージが届いた。
《なあ、うちの表札、昨日の雨で文字が半分落ちた。俺の名前の“條”の木偏だけ。縁起悪いよな》
私は慌てて返信した。
《今日は店に来るな。しばらく紙のものに自分の名前を書かないほうがいい》
《なんで》
《虫のせいだ。説明は今度》
返事はしばらく来なかったが、日付が変わる頃、彼のアカウント名が一瞬だけ「中○」になって通知に現れ、すぐ戻った。思い過ごしだろうか。胸が嫌なふうに波打った。
倉庫の天井裏を懐中電灯で照らすと、梁の陰に広がる黒い染みの中から微光が返った。紙魚の群れだ。彼らは溜めてあった古い書架用の名札――白いプラスチック板に店の手で印字した作家名――を土台に巣を張り、印字のカーボンを少しずつ舐め取っている。
名札の一枚を引き抜くと、裏に薄茶の粉が溜まっていた。粉の粒は、拡大鏡で見ると小さな刃物で削ったように角ばっている。印字された名前の黒いところほど粉が濃い。
私はそこを「紙魚宿(しみやど)」と呼ぶことにした。
呼び名を与えた途端、奇妙なことに私は気づくようになった。群れがひとつではない。梁の節穴の奥、厚紙を折った隙間、乾いた糊の裏――店のあちこちに「宿」が点在し、それぞれ好む名の種類が異なるのだ。蔵書票を舐める宿、奥付の著者名を噛む宿、献辞の宛名だけを狙う宿。
紙魚は文字の栄養を均等に摂るわけではない。名――その紙面上の輪郭と、そこに結びついた何か――を、選って食う。
名札の作り置きが尽き、私はコンビニで厚手のラベル用紙を買ってきた。テストで自分の苗字を一枚書いてみる。インクが乾く前に、それは音もなく薄くなった。輪郭は残るが、筆圧の濃いところが脱脂綿で押さえたみたいに白む。机の下から細い影が這い上がって、紙の端で消えた気がした。
夜、閉店後に電気を落とすと、店中の紙がわずかに呼吸する音がする。古書の紙は生き物じみて膨らんだり痩せたりするが、その晩は別の律動が混ざっていた。名のあるところが沈み、名のないところが持ち上がる。
そのうち、私は「匂い」を嗅ぎわけられるようになった。名は湿りを持つ。インクの種類や筆致によって香りが変わる。朱の蔵書印は鉄っぽく、鉛筆の署名は鉱物の粉のように乾いている。ボールペンの受領印は脂に近く、毛筆の宛名書きは藁の火の匂いがした。紙魚は、湿りを追う。
翌週、中條が店先に顔を出した。
「お前、なんで俺の名前書くななんて言ったんだよ」
「ほんとに、危ない」
私は彼を店に入れず、軒下で事情をかいつまんで話した。虫が名を食う、というと、中條は笑おうとしてやめ、首の後ろを掻いた。
「冗談にしては、最近変なんだ。会社の出入りのリスト、俺の欄だけかすれてさ。カフェで紙コップに書かれた名前、最初から“チュウ”しか読めない。配達の伝票も、俺の字が薄いんだ」
彼はポケットから免許証を取り出した。ラミネート越しに見ると、たしかに氏名欄の「條」の右半分が色褪せている。印刷の不良といえば言える程度だが、先日まではそんなことはなかったはずだ。
「店の中に入るな。紙をなるべく持ち歩くな。スマホの名前も、しばらくニックネームに変えておけ」
「なんだそれ」
「名は、呼べるところに寄ってくる。紙の名は、向こうへ道がつながってる」
彼は眉をひそめ、やがて小さく頷いた。
「じゃあ、俺は何て名乗ればいい」
「……そうだな。今日は“條”を使うな。『中じ』で」
わけのわからない会話だったが、彼は苦笑して帰っていった。背中が角を曲がる前、私の口から思わず声が出た。
「おい、中――」
呼びかけの最後が途切れ、喉に紙を貼られたみたいに声が止まった。口の形だけが宙に残る。銀の影が、一瞬あごの線を舐めて消えた。
このままでは誰かの名が剥がれてしまう。私は「宿」を一箇所に集めることを考えた。あちこちに点在する巣を呼び寄せ、店の裏の一室に「大元」を作る。そこにだけ名を置いてやれば、ほかは少し静まるはずだ。
机の上に未使用の蔵書票と名札板、捨てる予定の伝票用紙、書き損じの年賀状を積み、真ん中に古い硯を据えた。墨を磨り、筆を執る。
私は、自分の名前を書いた。
楷書で、ゆっくり、筆圧を散らして、画の途中に小さく切れ目を入れる。完全には閉じない文字。半分の名。
そして、その左右に無意味な名の断片――既にこの世にいない作家の別名の一部や、古い地名の字だけ――を散りばめた。名の匂いだけを強くして、誰にもつながらない回路。
灯りを落とすと、音がした。紙同士が擦れ、浅い谷に砂が流れ込むような音。机の上の紙の束がわずかに沈み、銀の光が縁に沿って移動する。私は息を殺した。
やがて、部屋の隅の墨の匂いが濃くなり、畳の目で影が増殖した。紙魚が入ってくる。細いもの、長いもの、若いもの。群れはまっすぐ私の名に向かい、最後の一画の裂け目で立ち止まった。
「そこだ」
私は囁き、硯の縁を指先で軽く叩いた。紙魚は一斉に方向を変え、蔵書票の黒い蔵書印へ雪崩れた。にじませた墨が、彼らにとっての甘露らしい。
夜明け前、机の上の紙はささくれ立ち、墨の濃いところだけが薄くなった。部屋の外の天井裏は静かだ。梁の宿のいくつかは、明らかに痩せた。
中條には、翌日もう一度来てもらった。
「これから一週間、夜だけここに、自分の名前を置いていけ」
「名前を置く?」
私は和紙の小札を見せた。表に薄墨で彼の名を書き、最後の一画をわざと欠いたものだ。小札は十枚。毎晩一枚、私が作った「大元」の机の上に置いていく。
「お札みたいなもんか」
「宿札だ。“完全な名前”は入れない。欠いたまま置く。あいつらは“名の湿り”に寄ってくるが、回路が閉じてなければ向こう側には届かない」
彼は渋い顔をしつつ従った。夜、彼が札を置いて帰ると、私は灯りを落とし、墨の匂いを濃くした。紙魚は、まず彼の札に集まり、欠けた最後の一画の手前でぐるぐると輪を描く。飢えが満ちると、隣の蔵書票へ流れていく。
三夜過ぎると、彼の免許証の「條」の欠けは目立たなくなった。ラミネートの裏から色が戻ることなど考えづらいが、事実だった。配達の伝票にも彼の名は濃く印字され、カフェの紙コップにはフルの綴りが書かれるようになったという。
紙魚宿は一箇所に落ち着いた。私はその部屋を「寄り場」と呼び、日中は扉を閉め、夜だけ開けた。誘い餌としての蔵書票や名札は、古紙回収の袋から足す。
奇妙な静けさが店に戻ってきた。天井裏の細い雨音のようなざわめきは消え、客のサインも滲まなくなった。青沼文庫のカードは、いくつかは救えなかったが、それ以上は痩せない。
ただ一つだけ、代償があった。
寄り場の机に置いた私自身の名前――半ばまで書いて終えた、あの文字の裂け目が、毎夜少しずつ広がっていくのだ。墨は乾いているのに、繊維がほどけるようにして、裂け目が一画ぶん伸びる。
ある朝、私はレジ横の名札を見てたじろいだ。白いプレートに印字された店員名の私の苗字の最後の字だけが、いつの間にか極端に細く痩せている。客は気づかない。だが私の目はごまかせなかった。
中條に話すと、彼は苦笑して肩を叩いた。
「そりゃ、お前が宿主なんだろ」
「宿主?」
「神社の氏子みたいなもんだ。名を供えて、名の穢れを受ける。俺は助かったし、店も守れてる。お前の名から一画ぶんの税金が取られてる、って考えたらどうだ」
彼の軽口に救われたつもりで、実際は背筋が冷えた。
冬に入ると、寄り場は穏やかになった。紙魚の群れは毎晩決まった時刻に現れ、一定の紙を舐め、夜明け前に散っていく。私は余計な名を店に置かないようにし、客のサイン帳はやめ、レシートの名前印字も廃止した。
ある夜、寄り場の机に古い位牌が混じっているのに気づいた。廃寺から回ってきた古道具の箱に紛れていたのだろう。表の戒名の金泥は剥げ、裏の俗名は、すでに紙魚に縁を齧られて半分読めない。
私は位牌を取り上げ、寄り場の外へ戻した。名の行き先は、さすがにあちらであるべきだ。
扉を閉めて振り返ると、机の上の私の名の裂け目が、前夜より僅かに閉じていることに気づいた。紙魚が位牌に齧り付かず、こちらから遠ざかるような動きをしたせいだろう。
名には、納まるべき場所がある。紙の上の名も、紙の外の名も。私はそう理解した。寄り場は、ただの「沈め石」だ。ここで、食い扶持を分けるだけ。
私は筆を取り、半ばでやめていた自分の名前の最後に、ほんの薄く、見えるか見えないかの一画を足した。閉じ切らない程度に、しかし風が逃げない程度に。
紙魚はその夜、私の名に見向きもしなかった。代わりに、蔵書票の「蔵」の中の「戈」の縦画だけが、少し痩せた。
春の初め、ひとりの客が来た。小さな子を抱いた若い父親で、赤ん坊はまだ名をもらっていないという。
「名付けの本を探してまして」
連想辞典や故事成語集、古い名付けの指南書をいくつか並べると、彼は熱心にページを繰った。赤ん坊が私の肩越しに寄り場の扉のほうをじっと見ている。
私は言葉の泉のような本を数冊すすめた上で、最後に一冊だけ、扉のほうに背を向けるように置いた。表紙に薄金の箔で「呼名集」とある、昭和の小出版社のものだ。
「この本には、載っていない名がたくさんある」
「え?」
「――いずれこの世に生まれる名の“湿り”が、紙に残ってる。だから、決めるのに役には立たない」
「じやあ、どうして」
「読んでみると、名を呼ぶときの喉の形が、自然に定まる。呼びやすい名の集まりだ」
父親は戸惑いながらも本を開き、数分後、ふっと表情がほどけた。
「決まりました」
彼は本を買い、会計の小さなサイン欄は空欄のまま出ていった。
寄り場の扉の向こうで、紙が一枚、安堵のように落ちた音がした。
今、私の名は少しだけ軽い。名刺の印字はごく薄く、店の名札の端はいつも白む。だが誰も困ってはいない。配達の伝票に私の名が必要なときは、漢字を簡略で書く。最後の一画は強くも弱くもなく、紙に息を残すように置く。
夜、寄り場の机に古い紙片を一枚だけ置く。そこには誰の名も書かない。ただ、紙魚宿の「宿」の字だけを、半分まで。
銀の影はそこに集まり、満ちると蔵書票へ流れる。店は、持ち出しの紙の名を、なるべく少なくした。名を呼ばないほうが、紙は長持ちする。
ときどき私は、自分の名字の最後の一画を、あえて書かずに済ます。捺印の隣に残る小さな空白は、落款のようで嫌いではない。そこに夜の薄い気配が宿り、紙魚宿の呼吸が、かすかに紙の平らに移る。
名は、紙の上では長くはない。
名は、声で呼ばれても短い。
けれど、名が名であることの湿りを、私は毎晩寄り場に置く。そうすると、どこか別の場所で、誰かが確かに呼ばれやすくなる――そんな気がする。
紙魚宿は今日も静かだ。
灯りを落とす前、私は机の端の半ばの文字に指を置き、息をひとつ、そこへ沈める。
銀の影が揺れ、墨の匂いがわずかに甘くなる。
それで、十分だ。
(了)
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