「声の帳」

 私が住む町には、すでに閉鎖されて久しい電話局の建物がある。灰色のコンクリート三階建てで、壁は雨に洗われ、窓はすべて板で塞がれている。だが玄関の庇だけはまだ頑丈で、町内の子どもが雨宿りに使っていた。


 私がそこに足を運んだのは、古い町史の調査がきっかけだった。郷土館に眠る資料の片隅に、「声の帳」と題された綴じ込みがあり、そこに「電話局に残された名簿を決して声に出してはならぬ」と朱で書かれていたのだ。


 電話局の名簿――それは、番号と名前の一覧にすぎないはずだ。だが「声に出してはならぬ」とは、いったいどういう意味か。私は好奇心に負け、町外れのその建物へと向かった。


 庇の下には、厚い鉄扉が錆びている。鍵はなく、押すと軋みながら開いた。

 中は埃と黴の匂いで満ち、壁にはまだ通信線の管が走っている。階段を上がり、二階の旧事務室に入ると、机や椅子が崩れたまま積まれていた。その奥の棚に、一冊の黒革の帳簿が立てかけられていた。


 表紙には金の箔押しで「利用者名簿」とある。私はページをめくった。

 番号の列、氏名の列、住所の列。だが奇妙なことに、氏名の欄の字はどれもかすれ、掠れながらも判読できてしまう。


 「斎藤……伊藤……山下……」


 無意識に読み上げた瞬間、部屋の奥でカリ、と音がした。紙が裂けるような、誰かが鉛筆を走らせるような音。


 慌てて声を止めたが、遅かった。

 机の埃の上に、黒い影がひとつ落ちていた。窓は塞がっている。私の影ではない。


 翌晩、寝床に入ると、布団の中で誰かが囁いた。


 「……次は、だれの番……」


 私は飛び起きた。部屋には誰もいない。だが喉が妙に乾き、声が掠れて出ない。鏡を見ると、唇がかすかに動いていた。自分ではない誰かが、私の口を借りて呟いているようだった。


 私はようやく理解した。名簿に記された「名」は、読み上げた者の声を媒介にして呼び出される。呼ばれた者は現れるが、声を持たぬままなので、読む者の喉を通して声を奪うのだ。


 恐ろしくなった私は、再び電話局へ向かった。

 名簿はまだそこにある。表紙を撫でると、わずかに温かい。私は考えた末、声を出さずに筆で紙に名を書き写してみた。

 だがその瞬間、背後で誰かが小さく笑った。


 「声でなければ、意味はない」


 振り返っても誰もいない。影だけが机に伸びていた。


 ならばどうするか。私は筆をとり、名簿の氏名欄を一つひとつ墨で塗りつぶした。呼べないように、声にならないように。すると、かすかな呻き声が紙の奥から洩れ、やがて静かになった。


 以来、夜に囁かれることはなくなった。

 だが私は時折、夢の中で聞く。電話のベルがけたたましく鳴り、受話器を取ると、掠れた声が繰り返すのだ。


 ――名前を、呼んでくれ。


 私は必ず黙って耳を塞ぐ。

 声を与えなければ、帳は開かれない。

 けれど、ふとした拍子に自分の唇が動いていることがある。無意識に誰かの名を形づくっているのだ。


 もし次に完全な名を言ってしまったら、そのとき私は自分の声を失うのだろう。

 その代わりに、私の喉から別の誰かが語り出すのだ。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る